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マイナー武将のメジャー家老・犬童頼兄による日記。
 
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午前中に、姉の嫁ぎ先の家に行ってきた。
来週の日曜日にすこし邪魔したいと思っていたので、都合を訊きに行ったのである。
その旨を家長である義兄に伝えると、
「来週の日曜日なら、いつでも構いませんよ」
と快い返事を貰った。
俺は「では午後2時頃にお伺いさせていただきます」と言い、その場を失礼しようとした。
が、
「茶でも飲んでいきませんか」
と半ば引き止めるような表情で誘われたので、俺は「それでは、是非」と答えた。
実際今日は休日で、急いで城に戻っても別段用事も無かったので、付き合いでなくとも誘いには応じていただろう。
義兄は妻である姉上を呼び、茶の支度をするよう言いつけていた。
「最近、殿は如何お過ごしですか」
茶が届くと、義兄は殿の近況を訊ねた。
「変わらずお元気で、政務に励まれていますよ」
俺は少々美化脚色して答えた。
現実は「変わらず能天気で、他人が強いれば政務に手を付ける」が精々である。
あえて脚色するのは、この人がまさに殿を敬慕し、殿に心酔しているからだ。
まさか俺が時々殿に蹴りを入れているなどと言えば、衝撃で3日は抜け殻のようになってしまうだろう。
「そうですか。さすが我々がお仕えさせて頂いている殿様だ」
義兄は、感動の故か熱のこもった頷きを繰り返した。
義兄が俺に殿の話を求めるのは、彼が殿に会えない身分だからである。
そして、殿の側近である俺には、義弟であるにも関わらず丁寧な言葉遣いをする。
「私も早く、殿にお会いできるよう出世しなければ」
義兄はその後30分ほど意気込みを語り、徐々に過激化していく彼の殿様像の美しさに少々冷や汗をかいた。
帰り際、庭で兵法の鍛錬をしている甥に会った。
その甥曰く、
「俺もいつか叔父さんみたいになるんだ」
帰路、俺は理想と現実の間を埋めるものはなんだろうか、と悶々と考えた。
殿様の御ためと言いながら、俺は割と殿に対していい加減なこともしているし、殿もゆるいのだ。
それが現実なのだ。
殿や俺をそんな美しい目で見られても、現実は1欠片の美と99の混沌で出来ているものなのだ。
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(劇)池田商会制作様
2008年9月14日、九州戦国史を描く演劇を上演されました
主役は犬童頼兄!



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キリ番訪い者様へのお返事
・1年目2月17日300訪いの方
ご訪問ありがとうございます。
「青森県弘前市に相良姓または犬童姓の人が今もいるのか」という内容のご意見をいただきました。申し訳ないことに管理人も断言できるほどの知識はありませんが、答えられる限りお答えしたいと思います。
根拠に用いるには説得力が疑われますが、Wikipediaによると、子孫は「名字を変えて」津軽藩に仕えたとあります。よって、相良姓・犬童姓は頼兄の代で終わったとも考えられます。しかし、犬童頼兄は津軽で罪人として扱われず、教養人として津軽藩の藩士の育成に貢献していたようですから、わざわざ身の上を憚り名字を変える必要性は無かったのではないでしょうか。さらに、町の名前として弘前市相良町が残っています。このことからも、仮に一旦頼兄の代で相良姓が絶えたとしても、江戸期に家系を遡り相良姓を再び名乗り始めた可能性も考えられます。
憶測ばかりで答えになっておりませんが、管理人は今も相良姓を名乗る人がいるのではないかと思っております。この度はご訪問・ご意見ありがとうございました。
※結論確定いたしました※
人吉城歴史館の学芸員の方にお話をお伺いして参りました。
人吉にも弘前にも、流罪後の頼兄に関する史料は残っていないようです。そのため、弘前に頼兄つながりの相良姓・犬童姓が残ったかどうかを確認することはできかねるということでした。
よりあに書簡
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よりあに書簡(別窓開きます)
相良頼房史実プロフィール
1574年生まれ。
第18代当主・義陽の次男として生まれ、父の戦死後は人質として薩摩に赴き、兄の死後は第20代当主となった。
関ヶ原合戦や大阪の陣を経験する。
犬童頼兄の補佐を受け、数々の場面で助けられるも、彼の勝手な振る舞いが悩みの種だった。
犬童頼兄史実プロフィール
生年不詳。
生家の犬童家は、肥後の奥地を治める相良氏に代々仕える。
相良家の2万2000石に対し、半分近い8000石を有した。
のちに相良頼兄、相良清兵衛頼兄と名乗る。
主家の維持に尽力するも、後年、専横の振舞いが目立ったため主家によって幕府に訴えられ、津軽藩に流される。
それに反発した一族が相良家に乱を起こし、一族全員121人が討死した。
弘前市相良町は頼兄の屋敷地に由来する。
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HN:
犬童頼兄
性別:
非公開
職業:
相良家筆頭家老
趣味:
策略謀略
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