午後、殿が「話がある」と言って俺を部屋に呼んだ。
「お呼びですか」
俺が部屋に入るや否や、殿は嬉しそうに紙の束を取り出した。
促されて机の前に座り、殿が差し出す紙に書いてあることを読んだ。
そこにあったのは俺の字だった。
「加藤さんのところに行ったとき、川の堤防工事について教えてもらっただろ。それを春から始めたいんだ」
殿が言うには、春になる頃には、節約して浮いた経費で、夏の嵐で崩れた崖等の工事に要した資金を十分まかなえるようだ。
「まだこれからも経費削減を続けていけば、堤防工事の費用も捻り出せるはずだと思うんだ」
よりあにはどう思う?と殿は俺に意見を求めた。
「梅雨に備えるためにも工事は始めなければなりませんが、城の経費を削るだけでは少々心許ないと思います。城下に金貸しがおりますから、それを利用するのは如何でしょうか」
「借金するの?」
殿は顔を曇らせ、「なんだか不安だなあ」と呟いた。
「もちろん借りすぎると利子が莫大になってしまいますが、綿密に計画した上でなら危険は少ないでしょう。その辺りを、経済に詳しい頼蔵に相談すると良いかと思われます」
「そうか。じゃ、頼蔵呼ぼうか」
殿は早速隣の間に控えている者に声を掛けようとしたが、俺が
「日曜日ですので、出掛けているようです」
と言うと、今日は日曜日だったの、と殿が驚いたように言った。
「せっかくの日曜日なのに、呼び出して悪かったね」
殿が俺に謝ったので、俺は「とんでもありません」と否定した。
殿様の御ためには、平日も日曜もないのだ。
「お呼びですか」
俺が部屋に入るや否や、殿は嬉しそうに紙の束を取り出した。
促されて机の前に座り、殿が差し出す紙に書いてあることを読んだ。
そこにあったのは俺の字だった。
「加藤さんのところに行ったとき、川の堤防工事について教えてもらっただろ。それを春から始めたいんだ」
殿が言うには、春になる頃には、節約して浮いた経費で、夏の嵐で崩れた崖等の工事に要した資金を十分まかなえるようだ。
「まだこれからも経費削減を続けていけば、堤防工事の費用も捻り出せるはずだと思うんだ」
よりあにはどう思う?と殿は俺に意見を求めた。
「梅雨に備えるためにも工事は始めなければなりませんが、城の経費を削るだけでは少々心許ないと思います。城下に金貸しがおりますから、それを利用するのは如何でしょうか」
「借金するの?」
殿は顔を曇らせ、「なんだか不安だなあ」と呟いた。
「もちろん借りすぎると利子が莫大になってしまいますが、綿密に計画した上でなら危険は少ないでしょう。その辺りを、経済に詳しい頼蔵に相談すると良いかと思われます」
「そうか。じゃ、頼蔵呼ぼうか」
殿は早速隣の間に控えている者に声を掛けようとしたが、俺が
「日曜日ですので、出掛けているようです」
と言うと、今日は日曜日だったの、と殿が驚いたように言った。
「せっかくの日曜日なのに、呼び出して悪かったね」
殿が俺に謝ったので、俺は「とんでもありません」と否定した。
殿様の御ためには、平日も日曜もないのだ。
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所用で城下に出掛けたところ、昼になったので知り合いが経営している料理屋に入った。
主人と新年の挨拶を交わし、案内された調理台の前の席に座った。
「上客さんがいらしたよ、お茶を出して差し上げなさい」
主人が奥に向かってそう言うと、「はい」と返事して彼の娘が盆を持って出てきた。
久し振りに顔を見たが、以前より随分大人らしい顔つきになっていた。
「ご注文はなにになさいますか」
俺があんまりじろじろと見たからか、娘は気恥ずかしそうだった。
献立表に書いてある日替わり定食を指して「これを頼む」と注文した。
久しく会ったので、主人には積もる話があったようだ。
最近の商売のこと、仲間から聞いためでたい話など、話題は尽きなかった。
その話の最中に、娘が突き出しとして「わさび蓮根」というものを出した。
「からしの代わりにわさびを詰めたものです」
美味しいですよ、と娘は言った。
聞いたところによると、近頃、巷では「わさび蓮根」なるものが流行しているらしい。
俺はまず一口食ってみた。
「…辛いことに変わりはない」
そう呟いて茶で流し込むと、娘は「犬童さんらしいご意見ですね」と笑った。
笑った顔も、大人っぽい品のある表情だった。
とても殿と同い年であるとは思えなかった。
帰り際、殿様の御ためにわさび蓮根を持って帰りたいので、売っている店を教えて欲しいと言うと、店にあるもので良ければ分けようとまで言ってくれた。
しかし、それでは申し訳ないので、せめて金を置いていくことで話がついた。
さっそく夕食時に殿にわさび蓮根を出すと、
「わさびでも美味しいね。酒に合いそうだ」
と喜んで食べていた。
果たして辛くないのだろうか、表情ひとつ変えずに噛り付いていた。
殿は今も、子供のような笑顔だった。
主人と新年の挨拶を交わし、案内された調理台の前の席に座った。
「上客さんがいらしたよ、お茶を出して差し上げなさい」
主人が奥に向かってそう言うと、「はい」と返事して彼の娘が盆を持って出てきた。
久し振りに顔を見たが、以前より随分大人らしい顔つきになっていた。
「ご注文はなにになさいますか」
俺があんまりじろじろと見たからか、娘は気恥ずかしそうだった。
献立表に書いてある日替わり定食を指して「これを頼む」と注文した。
久しく会ったので、主人には積もる話があったようだ。
最近の商売のこと、仲間から聞いためでたい話など、話題は尽きなかった。
その話の最中に、娘が突き出しとして「わさび蓮根」というものを出した。
「からしの代わりにわさびを詰めたものです」
美味しいですよ、と娘は言った。
聞いたところによると、近頃、巷では「わさび蓮根」なるものが流行しているらしい。
俺はまず一口食ってみた。
「…辛いことに変わりはない」
そう呟いて茶で流し込むと、娘は「犬童さんらしいご意見ですね」と笑った。
笑った顔も、大人っぽい品のある表情だった。
とても殿と同い年であるとは思えなかった。
帰り際、殿様の御ためにわさび蓮根を持って帰りたいので、売っている店を教えて欲しいと言うと、店にあるもので良ければ分けようとまで言ってくれた。
しかし、それでは申し訳ないので、せめて金を置いていくことで話がついた。
さっそく夕食時に殿にわさび蓮根を出すと、
「わさびでも美味しいね。酒に合いそうだ」
と喜んで食べていた。
果たして辛くないのだろうか、表情ひとつ変えずに噛り付いていた。
殿は今も、子供のような笑顔だった。
今日の朝食は普段の一汁一菜ではなく、七種粥であった。
白い飯の中に散らばる緑には季節の美しさがあった。
「今朝の七種粥、美味しかったね」
俺が殿の部屋に挨拶に行くなり、殿は満足そうな顔でそう言った。
「昔は『青臭い』と言って嫌っていましたのに」
俺は自分の仕事道具を取り出し、机の上に並べた。
「そうだったっけ」
扇子をぱちりと閉じ、殿は思い出すように左斜め上を見た。
「そうでしたよ」
幼い頃から食い意地が張り、嫌いなものなど無かった殿が唯一避けていたのが七種粥である。
機嫌をとらねばならない人物から七種粥を供された場合のために、仕方なく無理に食べさせていたものだ、と語った。
「そうかー、あんなに美味しいのに嫌いだったんだ。いま食べられるのはよりあにのおかげだね」
「滅相もありません。大人になればなるほど、嗜好は少なからず変わるものですから」
殿はまた扇子をぱちりと閉じた。
「年を取れば取るほど、その良さにますます気が付くこともある」
殿様の御ため、俺は
「仰るとおりです」
と言ったが、殿は昨日から熱でもあるのだろうか。
発言が真面目すぎる。
白い飯の中に散らばる緑には季節の美しさがあった。
「今朝の七種粥、美味しかったね」
俺が殿の部屋に挨拶に行くなり、殿は満足そうな顔でそう言った。
「昔は『青臭い』と言って嫌っていましたのに」
俺は自分の仕事道具を取り出し、机の上に並べた。
「そうだったっけ」
扇子をぱちりと閉じ、殿は思い出すように左斜め上を見た。
「そうでしたよ」
幼い頃から食い意地が張り、嫌いなものなど無かった殿が唯一避けていたのが七種粥である。
機嫌をとらねばならない人物から七種粥を供された場合のために、仕方なく無理に食べさせていたものだ、と語った。
「そうかー、あんなに美味しいのに嫌いだったんだ。いま食べられるのはよりあにのおかげだね」
「滅相もありません。大人になればなるほど、嗜好は少なからず変わるものですから」
殿はまた扇子をぱちりと閉じた。
「年を取れば取るほど、その良さにますます気が付くこともある」
殿様の御ため、俺は
「仰るとおりです」
と言ったが、殿は昨日から熱でもあるのだろうか。
発言が真面目すぎる。
午後の休憩中、殿のところに届いた年賀状を見せてもらった。
加藤清正や島津義久をはじめ、地域の首長など様々な人物から送られてきていた。
それらに1枚ずつ目を通していると、島津家からのものが2枚もあることに気が付いた。
「島津義久と義弘から1枚ずつありますね」
一方は格式張った丁寧な書面で、もう一方は自由奔放、ある意味これが芸術かと思わせるものだった。
「島津さんはいつも別々に送ってくるよね」
殿は苦笑いした。
「でも義弘さんは長誠にも書かせてくれるから、別々のほうが嬉しいかもしれない」
殿はふと呟くようにそう言うと、机の上に広げていた年賀状から1枚を手に取った。
「あいつは1年でまた字が綺麗になった」
俺は殿が差し出す年賀状を受け取った。
確かに、義弘の年賀状には長誠様の字があり、それは去年のものより上達していた。
そこで俺は殿様の御ため、
「では、兄の威厳を保つために書の勉強でも始めますか」
と申し出た。
「僕は字が上手くなるより、どうせなら手紙での駆け引きが上手くなるほうがいい」
殿は何気なくさらりと言ったようだったが、俺は新年早々いたく感銘を受けた。
今日は仕事始めの日だった。
初日から欠勤した者も無く、皆健康に新しい年の仕事を始められたようだ。
午後、自室で筆を走らせていると深水頼蔵がやって来た。
新年の挨拶は既に元日に済ませていたのだが、頼蔵はもう一度それを繰り返した。
仕方なく俺もそれに付き合い、「なにをしに来た」と訊いた。
「会計ですよ」
頼蔵はにこやかに答え、帳簿を出すよう求めた。
正月だからか、会計役が月初めに来ることをすっかり忘れていた。
俺は帳簿を差し出し、自分の仕事に戻った。
すると突然、頼蔵が妙な笑い声を立てた。
「そうですか、あなたも優しいことをするのですね」
頼蔵がなにに笑ったのかはわかっていた。
「甥と姪にお年玉をあげるなんて、よい叔父を務め上げていますね」
頼蔵はそう言いながら、会計帳簿に書き込みを始めた。
「親戚のために行動するのも、殿様の御ために繋がる」
「照れ隠しは要りませんよ」
俺は立ち上がり、頼蔵に新年初蹴りを入れた。
初日から欠勤した者も無く、皆健康に新しい年の仕事を始められたようだ。
午後、自室で筆を走らせていると深水頼蔵がやって来た。
新年の挨拶は既に元日に済ませていたのだが、頼蔵はもう一度それを繰り返した。
仕方なく俺もそれに付き合い、「なにをしに来た」と訊いた。
「会計ですよ」
頼蔵はにこやかに答え、帳簿を出すよう求めた。
正月だからか、会計役が月初めに来ることをすっかり忘れていた。
俺は帳簿を差し出し、自分の仕事に戻った。
すると突然、頼蔵が妙な笑い声を立てた。
「そうですか、あなたも優しいことをするのですね」
頼蔵がなにに笑ったのかはわかっていた。
「甥と姪にお年玉をあげるなんて、よい叔父を務め上げていますね」
頼蔵はそう言いながら、会計帳簿に書き込みを始めた。
「親戚のために行動するのも、殿様の御ために繋がる」
「照れ隠しは要りませんよ」
俺は立ち上がり、頼蔵に新年初蹴りを入れた。