殿のキジ馬は鞠が好きである。
転がしたり上に乗ろうとしたり、大抵同じ方法で遊んでいるが、飽きないようだ。
その気に入りの鞠が、今日ふとした拍子に穴が開いて壊れてしまった。
キジ馬は悲しげに鳴きながら、『直して欲しい』と言わんばかりに鞠を押して殿の元に寄った。
「昔からこれで遊んでいたからなあ」
殿はしぼんでしまった鞠を手に取り、穴の開いている箇所を調べていたが、触れば触るほど鞠は小さくなった。
「殿、それを直すのは難しいですよ」
「だよね。どうしようかな」
殿がキジ馬をちらと見ると、雰囲気で直せそうにないことを察したのか、キジ馬はまた悲しげに鳴いた。
俺はさてどうしたものかと考えていると、自室の物入れに鞠らしきものを置いていたような記憶があることに気がついた。
それを殿に告げ、自室に戻って物入れをくまなく探した。
すると、記憶が正しかったらしく確かに見覚えのある鞠が出てきた。
古くなっていたが、まだキジ馬が遊ぶには十分持ちこたえられると思われた。
「殿、これを与えては如何でしょうか」
そう言って殿に鞠を渡すと、
「まだしっかりしてるけど、貰っていいの?」
と、遠慮がちに呟いた。
「さすがに私も鞠で遊ぶ年でもなければ、蹴鞠も致しませんので」
殿は大笑いし、
「そうか、よりあにはもうこれで遊ばないよね」
といつまでも笑っていた。
俺が鞠で遊ぶ様子でも想像したのだろうか。
俺は殿様の御ため、
「鞠も物入れに置かれるより、使われるほうが有意義でしょう」
と言った。
転がしたり上に乗ろうとしたり、大抵同じ方法で遊んでいるが、飽きないようだ。
その気に入りの鞠が、今日ふとした拍子に穴が開いて壊れてしまった。
キジ馬は悲しげに鳴きながら、『直して欲しい』と言わんばかりに鞠を押して殿の元に寄った。
「昔からこれで遊んでいたからなあ」
殿はしぼんでしまった鞠を手に取り、穴の開いている箇所を調べていたが、触れば触るほど鞠は小さくなった。
「殿、それを直すのは難しいですよ」
「だよね。どうしようかな」
殿がキジ馬をちらと見ると、雰囲気で直せそうにないことを察したのか、キジ馬はまた悲しげに鳴いた。
俺はさてどうしたものかと考えていると、自室の物入れに鞠らしきものを置いていたような記憶があることに気がついた。
それを殿に告げ、自室に戻って物入れをくまなく探した。
すると、記憶が正しかったらしく確かに見覚えのある鞠が出てきた。
古くなっていたが、まだキジ馬が遊ぶには十分持ちこたえられると思われた。
「殿、これを与えては如何でしょうか」
そう言って殿に鞠を渡すと、
「まだしっかりしてるけど、貰っていいの?」
と、遠慮がちに呟いた。
「さすがに私も鞠で遊ぶ年でもなければ、蹴鞠も致しませんので」
殿は大笑いし、
「そうか、よりあにはもうこれで遊ばないよね」
といつまでも笑っていた。
俺が鞠で遊ぶ様子でも想像したのだろうか。
俺は殿様の御ため、
「鞠も物入れに置かれるより、使われるほうが有意義でしょう」
と言った。
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深水頼蔵と連名で提出しなければならない書類があったので、昼下がりに頼蔵の部屋に行った。
署名するには十数枚の文書を読む必要があったが、頼蔵は「そんなに時間は掛かりませんので」と俺をそのまま待たせた。
戦時には会計係から軍師になる彼の部屋には、山ほどの合戦記述書が保管されている。
暇だったので、俺はその内の最も新しい1冊を拝借して読んだ。
頼蔵の性格を表しているかのように、それには作戦の詳細や戦の経緯が非常に事細かに記されていた。
半ば感心しながら読んでいると、妙な言葉が目に留まった。
しかもそれは1度ではなく、幾度にも渡って記述の端々に見受けられた。
「この『襟巻き隊』とはなんだ」
頼蔵が文書に目を通しているにも関わらず、俺はたまりかねて訊ねた。
「見たままですよ。あなたの隊のことです」
頼蔵は爽やかなほどに軽やかにそう答えた。
「『殿様の御ために』戦でも活躍する頼兄殿ですから、特別に扱わせていただいただけです」
「そうか。そこまで見えるとは、さすがその眼鏡は伊達ではないな」
頼蔵の口から軽々しく「殿様の御ため」を出され、俺は頼蔵の眼鏡を粉微塵にしたい衝動に駆られた。
お家伝来の甲冑を眺めて、
「なんの変哲もないなあ」
と殿が呟いた。
お家の物に対しなんてことを言うのかと嗜めると、殿は「でも」と不満気だった。
殿が言うには、合戦場で見掛けたり噂で聞いたりした甲冑は、どれもなにかしら特徴と言うべきものがあったのが羨ましかったようだ。
特に、人伝に聞いた越後の上杉家の軍師、直江兼続の「愛」の前立てが気になったと言っていた。
「では、殿は愛に対抗して恋にでも致しますか」
俺は呆れながらこう提案した。
すると殿は、
「恋?こんな字だっけ」
と、筆を取って紙一面に力強く一字を書いた。
「変」。
「いくら殿様の御ためと言えど、自ら変人宣言をしつつ戦場を駆ける大将についてゆくことはできかねます」
殿はきょとんとしていた。
「なんの変哲もないなあ」
と殿が呟いた。
お家の物に対しなんてことを言うのかと嗜めると、殿は「でも」と不満気だった。
殿が言うには、合戦場で見掛けたり噂で聞いたりした甲冑は、どれもなにかしら特徴と言うべきものがあったのが羨ましかったようだ。
特に、人伝に聞いた越後の上杉家の軍師、直江兼続の「愛」の前立てが気になったと言っていた。
「では、殿は愛に対抗して恋にでも致しますか」
俺は呆れながらこう提案した。
すると殿は、
「恋?こんな字だっけ」
と、筆を取って紙一面に力強く一字を書いた。
「変」。
「いくら殿様の御ためと言えど、自ら変人宣言をしつつ戦場を駆ける大将についてゆくことはできかねます」
殿はきょとんとしていた。
誰が置いたのか、朝、水を張った桶が放置されているのを井戸の近くに見た。
しかし、よく見てみると水ではない。
覗き込むと、桶一面に氷が張っていた。
氷が張りかけの氷水を見ることは冬には珍しくないことであるが、表面一面に氷が張るのはこの冬初めてのことであった。
朝の挨拶の折にこのことを殿に伝えると、
「どおりで今朝はやたら寒いわけだ」
と、身を縮めて火鉢に手をかざした。
今日、殿は深水頼蔵を呼んで堤防工事について相談し、午後は俺を相手に兵法の鍛錬をした。
胴着から着物に着替え、道場を後にしたのは既に日の沈んだ夕方だった。
「さっきまで暖かかったのに、太陽が沈んだだけでまた寒くなったね」
鍛錬でせっかく温まった体も、吹きさらしの廊下を歩くと瞬く間に冷えてしまった。
あまり体を冷やすのは良くない。
夕食はおでんだと聞いていたので、俺は殿様の御ため、囲炉裏のある部屋を予め暖めておき、台所の者にそこに膳ではなく鍋ごと用意するよう言いつけた。
そこでなら、温かい料理を温かいまま食べることができる。
「ここまでしてくれるなんて」
殿をその部屋に案内すると、俺に付いて歩いていたときの怪訝な目が輝いた。
「ありがとう、申し訳ないくらい嬉しいよ」
俺は殿を甘やかし過ぎなのかもしれないが、殿が喜んでくれるよう頭を働かすことが好きなのである。
しかし、よく見てみると水ではない。
覗き込むと、桶一面に氷が張っていた。
氷が張りかけの氷水を見ることは冬には珍しくないことであるが、表面一面に氷が張るのはこの冬初めてのことであった。
朝の挨拶の折にこのことを殿に伝えると、
「どおりで今朝はやたら寒いわけだ」
と、身を縮めて火鉢に手をかざした。
今日、殿は深水頼蔵を呼んで堤防工事について相談し、午後は俺を相手に兵法の鍛錬をした。
胴着から着物に着替え、道場を後にしたのは既に日の沈んだ夕方だった。
「さっきまで暖かかったのに、太陽が沈んだだけでまた寒くなったね」
鍛錬でせっかく温まった体も、吹きさらしの廊下を歩くと瞬く間に冷えてしまった。
あまり体を冷やすのは良くない。
夕食はおでんだと聞いていたので、俺は殿様の御ため、囲炉裏のある部屋を予め暖めておき、台所の者にそこに膳ではなく鍋ごと用意するよう言いつけた。
そこでなら、温かい料理を温かいまま食べることができる。
「ここまでしてくれるなんて」
殿をその部屋に案内すると、俺に付いて歩いていたときの怪訝な目が輝いた。
「ありがとう、申し訳ないくらい嬉しいよ」
俺は殿を甘やかし過ぎなのかもしれないが、殿が喜んでくれるよう頭を働かすことが好きなのである。
今日は成人の日だった。
この日には、町人や農民の男子で、先年1年間に元服を終えた者たちが町ごとに集まり、皆の祝福を受ける。
茶を貰いに台所に行くと、台所の者の知り合いがこれに参加しているということを聞いた。
めでたいことである。
俺のときは、義陽公の次男に仕えると決まったときに元服した。
いつも眺めるだけだった城に上がれるということで異様に張り切り、その日の夜はなかなか眠れなかった記憶がある。
「楽しそうだなあ」
殿は朝から町の様子を眺めていた。
「僕もああいうのに参加したかったよ」
俺が持って来た茶を受け取ると、羨ましそうな目でそれをすすった。
武家の場合は、元服を済ませたあとに特別に皆に祝ってもらうような行事はない。
しかし、国主の家と一武家とは違う。
「なにを仰いますか。殿のときは、御家中のみならずくに中の者が祝い、喜んだのですよ」
14歳の国主が早世し、くにが薩摩に併合されると危ぶんだ領民にとって、薩摩から帰って来た元気のいい弟が跡を継いだことは、なによりも安心を示してくれることであった。
「そうかー…贅沢言っちゃったね」
キジ馬が擦り寄ってきたので、殿は抱き上げてキジ馬の頭を撫でた。
とは言え、俺は未だに殿が大人になったとは思えない。
名を改め、酒を嗜むようになったと言えど、昔と同じようにキジ馬を可愛がり、俺を「よりあに」と呼んでいる以上は、俺の中では殿はまだ長寿丸のままなのだ。
こうなってしまったのも、俺の殿様の御ためが間違っていたことに一因があるのかもしれない。
この日には、町人や農民の男子で、先年1年間に元服を終えた者たちが町ごとに集まり、皆の祝福を受ける。
茶を貰いに台所に行くと、台所の者の知り合いがこれに参加しているということを聞いた。
めでたいことである。
俺のときは、義陽公の次男に仕えると決まったときに元服した。
いつも眺めるだけだった城に上がれるということで異様に張り切り、その日の夜はなかなか眠れなかった記憶がある。
「楽しそうだなあ」
殿は朝から町の様子を眺めていた。
「僕もああいうのに参加したかったよ」
俺が持って来た茶を受け取ると、羨ましそうな目でそれをすすった。
武家の場合は、元服を済ませたあとに特別に皆に祝ってもらうような行事はない。
しかし、国主の家と一武家とは違う。
「なにを仰いますか。殿のときは、御家中のみならずくに中の者が祝い、喜んだのですよ」
14歳の国主が早世し、くにが薩摩に併合されると危ぶんだ領民にとって、薩摩から帰って来た元気のいい弟が跡を継いだことは、なによりも安心を示してくれることであった。
「そうかー…贅沢言っちゃったね」
キジ馬が擦り寄ってきたので、殿は抱き上げてキジ馬の頭を撫でた。
とは言え、俺は未だに殿が大人になったとは思えない。
名を改め、酒を嗜むようになったと言えど、昔と同じようにキジ馬を可愛がり、俺を「よりあに」と呼んでいる以上は、俺の中では殿はまだ長寿丸のままなのだ。
こうなってしまったのも、俺の殿様の御ためが間違っていたことに一因があるのかもしれない。