午前中に自室で仕事をしていると、手紙を携えた者が部屋に転がり込んできた。
上井覚兼から返事が届いたのだ。
先月25日にこちらから送って今日の到着であるから、随分時間が掛かったようである。
俺は早速封を開け、一息に書面を一読した。
「『立春だと言うのに、まだ肥後薩摩の境の山中では雪が溶けず、不自由ですが』…ほんとだ、なんか気になるね」
殿に手紙を見せたところ、俺が指摘した箇所に殿も違和感を覚えた。
「考え過ぎだと良いのですが、あの覚兼のことですから意図を隠しているに違いないでしょう。もはや確実にこちらを敵視し始めていると考えられます」
「そうか」
殿は短くそう答えて立ち上がり、「時間の問題か」と呟いた。
「いいえ。蓋があります。すべては大阪の具合によるでしょう」
肥後北部には清正という蓋があり、それを管轄しているのは大阪の秀吉である。
俺は殿様の御ため、
「殿は清正へ状況を知らせる手紙を書いてください。その1通で、お家の立場が変わります」
と申し上げた。
「内容が漏れてしまわないかな」
夏に商売の規制を解禁したので、このくににも薩摩の商人がしょっちゅう出入りしている。
そのため殿は手紙が敵方に渡ってしまう危険性を気に掛けていたようだが、
「心配なら、キジ馬が仰向けになっている絵を描けばよろしいのではないでしょうか。見た目はただの絵です。それならば飛脚が捕らえられたとしても、手紙を奪われることはないでしょう」
こう提案すると心配が解けたようであった。
「じゃあなるべく下手に描くよ」
殿は頷き、仰向けのキジ馬の絵を描き始めた。
描き上がると、俺は直ちにそれを飛脚の元に持って行き、なるべく急いで、それも極秘に熊本城の加藤清正の元へ届けるよう言いつけた。
「私もそろそろ、会計係を離職する頃ですかね」
廊下で会った深水頼蔵はそう言って戦を示唆した。
「果たしてあの長智殿の甥っ子も、太閤様のお眼鏡に適うかな」
俺は頼蔵の眼鏡を軽く指で叩いた。
頼蔵はずれた眼鏡を掛け直し、
「私も叔父もあなたと同じです。殿しかいないんですよ」
と清々しい笑顔を浮かべた。
上井覚兼から返事が届いたのだ。
先月25日にこちらから送って今日の到着であるから、随分時間が掛かったようである。
俺は早速封を開け、一息に書面を一読した。
「『立春だと言うのに、まだ肥後薩摩の境の山中では雪が溶けず、不自由ですが』…ほんとだ、なんか気になるね」
殿に手紙を見せたところ、俺が指摘した箇所に殿も違和感を覚えた。
「考え過ぎだと良いのですが、あの覚兼のことですから意図を隠しているに違いないでしょう。もはや確実にこちらを敵視し始めていると考えられます」
「そうか」
殿は短くそう答えて立ち上がり、「時間の問題か」と呟いた。
「いいえ。蓋があります。すべては大阪の具合によるでしょう」
肥後北部には清正という蓋があり、それを管轄しているのは大阪の秀吉である。
俺は殿様の御ため、
「殿は清正へ状況を知らせる手紙を書いてください。その1通で、お家の立場が変わります」
と申し上げた。
「内容が漏れてしまわないかな」
夏に商売の規制を解禁したので、このくににも薩摩の商人がしょっちゅう出入りしている。
そのため殿は手紙が敵方に渡ってしまう危険性を気に掛けていたようだが、
「心配なら、キジ馬が仰向けになっている絵を描けばよろしいのではないでしょうか。見た目はただの絵です。それならば飛脚が捕らえられたとしても、手紙を奪われることはないでしょう」
こう提案すると心配が解けたようであった。
「じゃあなるべく下手に描くよ」
殿は頷き、仰向けのキジ馬の絵を描き始めた。
描き上がると、俺は直ちにそれを飛脚の元に持って行き、なるべく急いで、それも極秘に熊本城の加藤清正の元へ届けるよう言いつけた。
「私もそろそろ、会計係を離職する頃ですかね」
廊下で会った深水頼蔵はそう言って戦を示唆した。
「果たしてあの長智殿の甥っ子も、太閤様のお眼鏡に適うかな」
俺は頼蔵の眼鏡を軽く指で叩いた。
頼蔵はずれた眼鏡を掛け直し、
「私も叔父もあなたと同じです。殿しかいないんですよ」
と清々しい笑顔を浮かべた。
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午後、仕事をしていると、殿が
「今日の晩御飯はみんなで食べようよ」
と言い出した。
「それは良いですね。大広間に集まって皆で豆まきをし、恵方巻きを食べるのですね」
傍で先月分の会計資料をまとめていた深水頼蔵も賛成し、俺に同意を求めるような視線を送った。
「では、そのように知らせを出しておきます」
雰囲気に負けて俺は仕事を中断し、「節分行事の知らせ」を書いて皆がよく通る場所に貼っておいた。
夜、貼り紙を見た者から口伝に聞いたのか、1人も欠席することなく全員が大広間に集まった。
型通りに豆まきをしたあと、年の数足す1の大豆をとって膳の上に盛ると、予想以上の大盛であった。
「このようなときに、改めて年齢を実感しますね」
頼蔵がそう言ったのを岡本頼氏殿が聞き、
「確かにその通りですな」
と、どうしようもないほどに膳に盛られた大豆を眺めて愉快そうだった。
膳からこぼれそうになるほどの大豆を盛ることは、それまで生きてこられたということである。
実はたいへんな幸せであるのかもしれない、と俺は思った。
恵方巻きに手を付ける前に、殿が
「今年もみんなが元気でいられるように」
と自分の願いを言って盛り上げたあと、揃って今年の恵方である東北東を向いて食べた。
俺の願いは、変わらず殿様の御ためである。
邪気が入りやすいと言う季節の変わり目に邪気を払ったので、今年もお家安泰のためにつつがなく働くことができるだろう。
その後、場は例の如く酒宴になだれ込んだ。
頼氏殿は大豆をつまみに酒を飲んでいたが、大豆がなくなるには小一時間掛かっていた。
読みたい本が実家にあることに気が付き、午後暖かくなってから城を下りた。
城の梅と同じく、庭の梅の木も枝に点々とつぼみをつけていた。
探し物は屋敷とは別の建物にあるのだが、実家に足を踏み入れたからには、父に挨拶をせねばならない。
父は大抵居間か自室にいるので、とりあえず試しに居間を覗いてみた。
「どうした頼兄、豆でも撒きに帰ったか」
真面目なはずの父が、俺を見るなり冗談を飛ばした。
よく見ると、父の前には膳が置かれていた。
「父上、昼間から酒ですか」
俺は半ば呆れ、膳を挟んで父の前に座った。
膳には熱燗2本と、球磨川で獲れた鮎の内臓で作った苦うるかが乗っていた。
「世間さまでは、今日は日曜日だ。今日くらいは昼から呑んでも罰は当たらないだろう」
父は明らかに酔っ払い、上機嫌だった。
隠居した父には日曜日も平日もない日々であるが、現役のころ身を粉にして働いていた背中を俺は間近で見ていた。
それだけに、引退後の生活くらいは穏やかに過ごしてもらいたく思っていたので、昼間の酒を嗜む余裕のある父の姿はかえって俺を安心させた。
「せっかくだから、これの茶漬けを食っていけ。昨日市で買ったんだが、格別だ」
父が盛んに旨いと勧めるので、俺はうるかの茶漬けをもらうことにした。
塩がよくきいて、確かに美味かった。
父も酒の締めとして食っていたが、不意にぽつりと呟いた。
「こう年を取ると、子供と飯を食うのが唯一の楽しみになるのだな」
俺は思わず父の顔を見た。
「風の噂で、上井がここに来ていたと聞いた。殿様の御ためにはお前もたいへんだろうが、たまには息抜きでもしに家に帰って来い」
「ではその際には、また美味いものを食わせてくださいね」
俺がそう言うと、父は本心を見透かされたと思ったのか、若干どもりながら
「ああ、用意しておいてやる」
と頷いた。
「梅を咲かすも枯らすも、殿を補佐する家臣の腕に掛かっている。そこを忘れぬように」
照れ隠しのつもりであろう。
父は相良のお家の家紋、長剣梅鉢を梅の木に例えて俺を諭した。
心得ております、と返事し、俺は庭の梅の木に目を移した。
今年の春も、きっと見事な花を咲かせるだろう。
城の梅と同じく、庭の梅の木も枝に点々とつぼみをつけていた。
探し物は屋敷とは別の建物にあるのだが、実家に足を踏み入れたからには、父に挨拶をせねばならない。
父は大抵居間か自室にいるので、とりあえず試しに居間を覗いてみた。
「どうした頼兄、豆でも撒きに帰ったか」
真面目なはずの父が、俺を見るなり冗談を飛ばした。
よく見ると、父の前には膳が置かれていた。
「父上、昼間から酒ですか」
俺は半ば呆れ、膳を挟んで父の前に座った。
膳には熱燗2本と、球磨川で獲れた鮎の内臓で作った苦うるかが乗っていた。
「世間さまでは、今日は日曜日だ。今日くらいは昼から呑んでも罰は当たらないだろう」
父は明らかに酔っ払い、上機嫌だった。
隠居した父には日曜日も平日もない日々であるが、現役のころ身を粉にして働いていた背中を俺は間近で見ていた。
それだけに、引退後の生活くらいは穏やかに過ごしてもらいたく思っていたので、昼間の酒を嗜む余裕のある父の姿はかえって俺を安心させた。
「せっかくだから、これの茶漬けを食っていけ。昨日市で買ったんだが、格別だ」
父が盛んに旨いと勧めるので、俺はうるかの茶漬けをもらうことにした。
塩がよくきいて、確かに美味かった。
父も酒の締めとして食っていたが、不意にぽつりと呟いた。
「こう年を取ると、子供と飯を食うのが唯一の楽しみになるのだな」
俺は思わず父の顔を見た。
「風の噂で、上井がここに来ていたと聞いた。殿様の御ためにはお前もたいへんだろうが、たまには息抜きでもしに家に帰って来い」
「ではその際には、また美味いものを食わせてくださいね」
俺がそう言うと、父は本心を見透かされたと思ったのか、若干どもりながら
「ああ、用意しておいてやる」
と頷いた。
「梅を咲かすも枯らすも、殿を補佐する家臣の腕に掛かっている。そこを忘れぬように」
照れ隠しのつもりであろう。
父は相良のお家の家紋、長剣梅鉢を梅の木に例えて俺を諭した。
心得ております、と返事し、俺は庭の梅の木に目を移した。
今年の春も、きっと見事な花を咲かせるだろう。
殿の嫁について相談するために、殿の母君である了心様の部屋に赴いた。
頼蔵から聞いた椎葉の娘の話をすると、了心様も興味を持ったようで、考えておくのも良いでしょうと肯定的な答えを返した。
話が終わったので失礼させて頂こうとすると、了心様は、
「薩摩の上井様はどのような方でしたか」
と覚兼の話を出した。
その表情は先程とは一変し、憂えていた。
俺は、さすがは義久の側近を務める方で、抜け目のない嫌な優秀さを持った使者だった、と述べた。
「そうでしたか」
了心様は小さく溜め息をついた。
「島津のお家には、ほんとうに苦しめられます。殿はなにも邪に利益を求めているのではなく、ただ、この家とこのくにの民の暮らしを守るためだけに策を練っていらっしゃると言うのに」
「ただそれだけのことでも、相手方には脅威に見えることもあるようです」
薩摩にとっては、相良が手を結ぶ相手が加藤清正となると、その背後にある中央勢力が気になって仕方がないのである。
「しかし、私は悲しみなどという余計なものは抱いておりません」
了心様は引き締まった声色で言った。
「当代の殿様には、あなたがおります。きっと上手に、この荒れた世を渡る手助けをしてくださると私は信じております」
優しい瞳で信頼を向けられ、俺は感激のあまりつい早口になった。
「殿様の御ため、ご期待に背かぬよう尽力して参ります」
了心様は俺の必死さに「ふふ」と好意的に笑い、庭に見える、まだつぼみの梅の枝を眺めた。
梅には一足先に春が来る。
頼蔵から聞いた椎葉の娘の話をすると、了心様も興味を持ったようで、考えておくのも良いでしょうと肯定的な答えを返した。
話が終わったので失礼させて頂こうとすると、了心様は、
「薩摩の上井様はどのような方でしたか」
と覚兼の話を出した。
その表情は先程とは一変し、憂えていた。
俺は、さすがは義久の側近を務める方で、抜け目のない嫌な優秀さを持った使者だった、と述べた。
「そうでしたか」
了心様は小さく溜め息をついた。
「島津のお家には、ほんとうに苦しめられます。殿はなにも邪に利益を求めているのではなく、ただ、この家とこのくにの民の暮らしを守るためだけに策を練っていらっしゃると言うのに」
「ただそれだけのことでも、相手方には脅威に見えることもあるようです」
薩摩にとっては、相良が手を結ぶ相手が加藤清正となると、その背後にある中央勢力が気になって仕方がないのである。
「しかし、私は悲しみなどという余計なものは抱いておりません」
了心様は引き締まった声色で言った。
「当代の殿様には、あなたがおります。きっと上手に、この荒れた世を渡る手助けをしてくださると私は信じております」
優しい瞳で信頼を向けられ、俺は感激のあまりつい早口になった。
「殿様の御ため、ご期待に背かぬよう尽力して参ります」
了心様は俺の必死さに「ふふ」と好意的に笑い、庭に見える、まだつぼみの梅の枝を眺めた。
梅には一足先に春が来る。
「もちろん、あなたは殿の嫁のことも考えていますよね」
午後、茶を貰いに行った台所で深水頼蔵に会った。
「当たり前だ」
俺はそう答えたが、実のところは現状管理だけで手一杯で、嫁のことなど忘れていた。
「家柄も大事ですが、それでいて器量が良いほうがいいですよね。それに殿には年下より年上のほうが合っているでしょう」
頼蔵は俺の嘘を見透かしたように、殿の嫁にするに相応しい女の条件について語り始めた。
俺はそれを聞きながら適当に相槌を打ち、茶をすすりながら他事を考えていた。
「椎葉に美しい娘がいるという噂を耳にしました」
椎葉山は肥後と日向の国境にある険しい山で、13の集落の13人の首長が治めている土地である。
まだ行ったことはないが、その山を越えるのは相当厳しいと聞いたことはあった。
「あの山奥か」
「その山奥からここまで噂が立つほどの美人だそうです。候補に入れてみては如何でしょう」
そう言うと、頼蔵は「では」と台所を後にした。
俺は殿の部屋に戻って机の前に腰を下ろし、キジ馬と遊んでいる殿を眺めた。
いくら殿様の御ためと言えど、いかにも楽しそうにキジ馬と戯れる殿には、まだ嫁は早いのではないだろうか。
そう思いつつも、俺は一度殿の母君にも相談しようと考えた。
午後、茶を貰いに行った台所で深水頼蔵に会った。
「当たり前だ」
俺はそう答えたが、実のところは現状管理だけで手一杯で、嫁のことなど忘れていた。
「家柄も大事ですが、それでいて器量が良いほうがいいですよね。それに殿には年下より年上のほうが合っているでしょう」
頼蔵は俺の嘘を見透かしたように、殿の嫁にするに相応しい女の条件について語り始めた。
俺はそれを聞きながら適当に相槌を打ち、茶をすすりながら他事を考えていた。
「椎葉に美しい娘がいるという噂を耳にしました」
椎葉山は肥後と日向の国境にある険しい山で、13の集落の13人の首長が治めている土地である。
まだ行ったことはないが、その山を越えるのは相当厳しいと聞いたことはあった。
「あの山奥か」
「その山奥からここまで噂が立つほどの美人だそうです。候補に入れてみては如何でしょう」
そう言うと、頼蔵は「では」と台所を後にした。
俺は殿の部屋に戻って机の前に腰を下ろし、キジ馬と遊んでいる殿を眺めた。
いくら殿様の御ためと言えど、いかにも楽しそうにキジ馬と戯れる殿には、まだ嫁は早いのではないだろうか。
そう思いつつも、俺は一度殿の母君にも相談しようと考えた。