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マイナー武将のメジャー家老・犬童頼兄による日記。
 
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夏になると、巷では自然と怪談話が流行りはじめる。
怪談という類のものではないが、俺も一応そんな奇妙な体験をしたことがある。
10年近く前の冬、12月2日だった。
俺はそのとき、殿の守り役教育係を務めていた。
前日から、俺の父や他の家臣たちは先々代に従って出陣していたが、俺は寒がりだから使えないという理由で参加することを許されていなかった。
この点についてもいろいろと言いたいことがあるが、いまは置いておく。
その日は、雪でも降り始めそうな寒い夜だった。
俺は部屋で机に向かって仕事をし、殿はそのうしろでキジ馬と遊んでいた。
だいたい8時ごろであったと思う。
それまでキジ馬と戯れていた殿が、突然大きな声で泣きはじめた。
俺は驚いて筆を落とし、慌てて殿の元に寄ってどうしたのかと訊いた。
キジ馬に指を噛まれでもしたのかと考えていたが、殿は「お父さんが」と繰り返すばかりだった。
キジ馬も、なにが起こったのかわからない様子である。
俺はとにかく殿を落ち着かせようとしたが、それもままならず、殿の声を聞いた深水頼蔵や留守居の家臣たちが部屋に押し入ってきて、『長寿丸様(=殿の幼名)になにをしたのか』と俺を詰問しはじめた。
結局、その夜は「あなたがなにかしたのだろう」と言う頼蔵と、「なにもしていない」と主張する俺の押し問答で終わった。
翌日、城に入ってきた情報によって、殿の父親が戦死したことが分かった。
日が経ち、大勢が戦死したなか生き延びて帰ってきた家臣に、俺は戦の話を聞いていた。
すると、「だいたい8時頃、敵が奇襲を掛けてきて、殿は戦死された」とその家臣は言った。
俺は合点が行くと同時に、「まさか」と思った。
殿に合戦場の様子を知る手立てなど無いし、よもや父親が戦死すると考えていたわけでもないだろう。
やはり、父親が死んだ瞬間、なにかを感じ取ったのだろうか。
俺は、殿に直接その真偽を確かめようとした。
しかし、その頃は、殿の兄に家督を継がせるための島津側との交渉に忙しい時期で、その上、兄を立てる代わりに殿が薩摩に人質に行かねばならない状況であった。
よって、そのようなことを訊く暇も無かった。
そして、これまで話題に出したこともない。
なぜなら、訊くまでもなかったからだ。
殿が兄の跡を継ぐためにこの城に帰ってきてから数日後、
「父さんみたいに、床机に座ったまま討たれるのはすごい覚悟だよね」
と言った。
合戦場にいたのは、相良の兵だけであったと言う。
だれも殿にあの合戦の話はしていなかった。
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(劇)池田商会制作様
2008年9月14日、九州戦国史を描く演劇を上演されました
主役は犬童頼兄!



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キリ番訪い者様へのお返事
・1年目2月17日300訪いの方
ご訪問ありがとうございます。
「青森県弘前市に相良姓または犬童姓の人が今もいるのか」という内容のご意見をいただきました。申し訳ないことに管理人も断言できるほどの知識はありませんが、答えられる限りお答えしたいと思います。
根拠に用いるには説得力が疑われますが、Wikipediaによると、子孫は「名字を変えて」津軽藩に仕えたとあります。よって、相良姓・犬童姓は頼兄の代で終わったとも考えられます。しかし、犬童頼兄は津軽で罪人として扱われず、教養人として津軽藩の藩士の育成に貢献していたようですから、わざわざ身の上を憚り名字を変える必要性は無かったのではないでしょうか。さらに、町の名前として弘前市相良町が残っています。このことからも、仮に一旦頼兄の代で相良姓が絶えたとしても、江戸期に家系を遡り相良姓を再び名乗り始めた可能性も考えられます。
憶測ばかりで答えになっておりませんが、管理人は今も相良姓を名乗る人がいるのではないかと思っております。この度はご訪問・ご意見ありがとうございました。
※結論確定いたしました※
人吉城歴史館の学芸員の方にお話をお伺いして参りました。
人吉にも弘前にも、流罪後の頼兄に関する史料は残っていないようです。そのため、弘前に頼兄つながりの相良姓・犬童姓が残ったかどうかを確認することはできかねるということでした。
よりあに書簡
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よりあに書簡(別窓開きます)
相良頼房史実プロフィール
1574年生まれ。
第18代当主・義陽の次男として生まれ、父の戦死後は人質として薩摩に赴き、兄の死後は第20代当主となった。
関ヶ原合戦や大阪の陣を経験する。
犬童頼兄の補佐を受け、数々の場面で助けられるも、彼の勝手な振る舞いが悩みの種だった。
犬童頼兄史実プロフィール
生年不詳。
生家の犬童家は、肥後の奥地を治める相良氏に代々仕える。
相良家の2万2000石に対し、半分近い8000石を有した。
のちに相良頼兄、相良清兵衛頼兄と名乗る。
主家の維持に尽力するも、後年、専横の振舞いが目立ったため主家によって幕府に訴えられ、津軽藩に流される。
それに反発した一族が相良家に乱を起こし、一族全員121人が討死した。
弘前市相良町は頼兄の屋敷地に由来する。
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HN:
犬童頼兄
性別:
非公開
職業:
相良家筆頭家老
趣味:
策略謀略
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