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マイナー武将のメジャー家老・犬童頼兄による日記。
 
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今日は海の日だった。
このくにの3代前が当主であった頃までは、この日はなかった。
なぜなら、このくにには海がないからである
先々代のときに島津の幕下に入った際、薩摩の暦も取り入れたので、今日は海の日ということになった。
「ここにも海が欲しいなぁ」
と殿が呟いた。
それはつまり、海がある他国の領土を切り取りたいということか、と俺が訊くと、殿は
五分五分」と答えた。
今度は、五分五分とはどういう意味かと訊ねた。
「確かに海は欲しいけれど、他の土地には興味ない」
どうやら殿は、海は欲しいが土地は要らないらしい。
「土地が増えれば石高も上がり、動員できる兵の数も増すではありませんか」
俺がそう言うと、殿は「確かにそうだけれど」と首を傾げて思案した。
「ここよりも生産的な土地があると思う?」
殿は、城郭の外に広がる青々とした水田に目をやった。
「薩摩では、武士が農民に比べて多すぎるから、いくら稲を育ててもほとんどを年貢にもっていかれていたよ。でも、ここでは米を使って焼酎を造れるくらい余っている」
実際、上に報告してある石高より実質の石高は3万石ほど多い。
中央から役人が視察に来ても、彼らにはわからないような場所に田を多く作っているからだ。
「一見、山ばかりで稲なんて育てられそうにない土地だけれど、実は平地もたくさんあるし、植えてみれば十分収穫できる。これほど、政治的にも経済的にも都合のいい土地が他にあるのなら欲しいけれど、これ以下ならあっても足しにならないや」
殿はそう言って茶をすすった。
たいそうな自信だ、と俺は思った。
所詮地方の小大名よと侮られようと、この自信と経済力の裏付けがあれば、いざというときに博打を打つことも可能であろう。
俺はますます、殿の胆の据わり具合が気に入った。
このような殿になら、殿様の御ためと言って、己をも賭けられるのだ。

しかし、いくらキジ馬が欲しがっているからと言って、梅干しを与えるのは博打の打ちすぎだと思われる。
キジ馬は酸っぱがっていた。
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キジ馬ファンより
2008/07/21(Mon)23:44:47
私もキジ馬氏に梅干しを差し上げたいです!(>×<)
編集
Re:キジ馬ファンより
2008/07/21 23:54
飼い主に似てなんでも食べるようだから、好きに与えてくれ。
犬童頼兄
 
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(劇)池田商会制作様
2008年9月14日、九州戦国史を描く演劇を上演されました
主役は犬童頼兄!



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キリ番訪い者様へのお返事
・1年目2月17日300訪いの方
ご訪問ありがとうございます。
「青森県弘前市に相良姓または犬童姓の人が今もいるのか」という内容のご意見をいただきました。申し訳ないことに管理人も断言できるほどの知識はありませんが、答えられる限りお答えしたいと思います。
根拠に用いるには説得力が疑われますが、Wikipediaによると、子孫は「名字を変えて」津軽藩に仕えたとあります。よって、相良姓・犬童姓は頼兄の代で終わったとも考えられます。しかし、犬童頼兄は津軽で罪人として扱われず、教養人として津軽藩の藩士の育成に貢献していたようですから、わざわざ身の上を憚り名字を変える必要性は無かったのではないでしょうか。さらに、町の名前として弘前市相良町が残っています。このことからも、仮に一旦頼兄の代で相良姓が絶えたとしても、江戸期に家系を遡り相良姓を再び名乗り始めた可能性も考えられます。
憶測ばかりで答えになっておりませんが、管理人は今も相良姓を名乗る人がいるのではないかと思っております。この度はご訪問・ご意見ありがとうございました。
※結論確定いたしました※
人吉城歴史館の学芸員の方にお話をお伺いして参りました。
人吉にも弘前にも、流罪後の頼兄に関する史料は残っていないようです。そのため、弘前に頼兄つながりの相良姓・犬童姓が残ったかどうかを確認することはできかねるということでした。
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相良頼房史実プロフィール
1574年生まれ。
第18代当主・義陽の次男として生まれ、父の戦死後は人質として薩摩に赴き、兄の死後は第20代当主となった。
関ヶ原合戦や大阪の陣を経験する。
犬童頼兄の補佐を受け、数々の場面で助けられるも、彼の勝手な振る舞いが悩みの種だった。
犬童頼兄史実プロフィール
生年不詳。
生家の犬童家は、肥後の奥地を治める相良氏に代々仕える。
相良家の2万2000石に対し、半分近い8000石を有した。
のちに相良頼兄、相良清兵衛頼兄と名乗る。
主家の維持に尽力するも、後年、専横の振舞いが目立ったため主家によって幕府に訴えられ、津軽藩に流される。
それに反発した一族が相良家に乱を起こし、一族全員121人が討死した。
弘前市相良町は頼兄の屋敷地に由来する。
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犬童頼兄
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相良家筆頭家老
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