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マイナー武将のメジャー家老・犬童頼兄による日記。
 
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日曜日なので、例の如く休日だった。
今日は午前中に城を出て、夕方まで実家に滞在してきた。
ほんらいならば屋敷から城に通うのがふつうであるが、俺はなにしろ面倒なので殿の近くにいたほうが殿様の御ために励めると思い、城の一室を借りて暮らしている。
ひとり者は実家と城の都合のいいほうに住み、妻子をもつと皆屋敷から通うようだ。
話が逸れた。
実家に帰るのは正月以来だった。
玄関に入ると、すでに引退し、月や花を愛でる生活を送っている父がみずから出迎えてくれた。
俺の到着を待ちわびていたようであった。
懐かしい居間に通され、茶と茶菓子が出された。
「おまえは酒に弱いからな」
と、父は笑ってそう言った。
殿の父である義陽公、兄の忠房公、そして殿の3代に仕え、相良のお家の存続に尽くしてきた人だ。
あまりに忙しく、いまのように笑うことなど無かった。
「努力はしているのですが、戦には勝てても、なかなか酒には勝てません」
「言うようになった」
父はまた機嫌よく笑った。
その後、『元気にしているのか、ちゃんと飯食ってるか』と父は俺の近況を聞きたがり、昼食では、話は殿の近況になった。
「相変わらず書を読むのは苦手のようですが、視察は好んで行います」
俺がそう言うと、
「学問だけではわからんこともある。良い政治をする方法は、領民の生活のなかにあるものだ」
と、父は盃を傾けながら言った。
「いままで通り、これからも殿にご奉公専一、よく励むように」
思わず俺は箸を置き、「はい」と父に一礼した。
帰り際、父は「殿に渡してくれるか」と言って、俺に片手でもてるほどの大きさの瓶を差し出した。
「殿のお好きな梅干しを作ってみた。重いが、殿に土産として渡してくれ」
楽しんで引退後の日々を送っている父を見て、俺は、らしくもないがどこが安心した心持ちになった。
俺は殿に必ず渡すことを約束して、屋敷を後にした。

城に帰り、その足で殿の部屋に行くと、殿はキジ馬と遊んでいた。
俺は挨拶をしてから簡単に今日のことを述べ、父から預かったものを取り出した。
「父から、これを殿にお渡しするよう頼まれました」
殿は瓶を手に取り、眺めて中身が梅干しとわかると、嬉しそうな顔をした。
「もしかして、頼安(=父の名前)がつくったの?」
そうだと答えると、殿は「僕が梅干しを好きなの、覚えていてくれたんだね」と懐かしそうに言った。
夕食のときに殿はその瓶を開け、ひとつ口に入れて
「よりあに、美味しいよ」
と満足そうに笑った。
俺は父に一筆書き、このことを報告しようと思う。
きっと殿のこの言葉が、父をなによりも元気づけるだろう。
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(劇)池田商会制作様
2008年9月14日、九州戦国史を描く演劇を上演されました
主役は犬童頼兄!



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キリ番訪い者様へのお返事
・1年目2月17日300訪いの方
ご訪問ありがとうございます。
「青森県弘前市に相良姓または犬童姓の人が今もいるのか」という内容のご意見をいただきました。申し訳ないことに管理人も断言できるほどの知識はありませんが、答えられる限りお答えしたいと思います。
根拠に用いるには説得力が疑われますが、Wikipediaによると、子孫は「名字を変えて」津軽藩に仕えたとあります。よって、相良姓・犬童姓は頼兄の代で終わったとも考えられます。しかし、犬童頼兄は津軽で罪人として扱われず、教養人として津軽藩の藩士の育成に貢献していたようですから、わざわざ身の上を憚り名字を変える必要性は無かったのではないでしょうか。さらに、町の名前として弘前市相良町が残っています。このことからも、仮に一旦頼兄の代で相良姓が絶えたとしても、江戸期に家系を遡り相良姓を再び名乗り始めた可能性も考えられます。
憶測ばかりで答えになっておりませんが、管理人は今も相良姓を名乗る人がいるのではないかと思っております。この度はご訪問・ご意見ありがとうございました。
※結論確定いたしました※
人吉城歴史館の学芸員の方にお話をお伺いして参りました。
人吉にも弘前にも、流罪後の頼兄に関する史料は残っていないようです。そのため、弘前に頼兄つながりの相良姓・犬童姓が残ったかどうかを確認することはできかねるということでした。
よりあに書簡
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よりあに書簡(別窓開きます)
相良頼房史実プロフィール
1574年生まれ。
第18代当主・義陽の次男として生まれ、父の戦死後は人質として薩摩に赴き、兄の死後は第20代当主となった。
関ヶ原合戦や大阪の陣を経験する。
犬童頼兄の補佐を受け、数々の場面で助けられるも、彼の勝手な振る舞いが悩みの種だった。
犬童頼兄史実プロフィール
生年不詳。
生家の犬童家は、肥後の奥地を治める相良氏に代々仕える。
相良家の2万2000石に対し、半分近い8000石を有した。
のちに相良頼兄、相良清兵衛頼兄と名乗る。
主家の維持に尽力するも、後年、専横の振舞いが目立ったため主家によって幕府に訴えられ、津軽藩に流される。
それに反発した一族が相良家に乱を起こし、一族全員121人が討死した。
弘前市相良町は頼兄の屋敷地に由来する。
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HN:
犬童頼兄
性別:
非公開
職業:
相良家筆頭家老
趣味:
策略謀略
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