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マイナー武将のメジャー家老・犬童頼兄による日記。
 
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今日は久し振りによく晴れ、先週から洗濯に出していた襟巻きがまとめて手元に返ってきた。
「そろそろ田植えの準備をする時期だね」
米の好きな殿は、外を眺めて嬉しそうにそう言った。
米と言ってもそれは単に食糧となるだけではなく、経済の基盤をなすものである。
したがって、米を多く収穫できる土地ほど大きな経済力を得られる。
この球磨の地は稲をよく育てるが、言うまでもなく、殿の頭には食い物としての米しかない。
「今年も美味しい米がたくさんとれたらいいなあ」
殿は早くも涎の出そうな顔をしていた。
どんな形であれ一国の主が豊作を願うことは大切なことであり、また、今年は川の堤防工事に着工し治水事業を進めるので、現実の面でも農民を援助することができる。
俺は殿様の御ため
「では、青井神社に豊作を祈願しに参りましょうか」
と提案した。
青井阿蘇神社は相良家と縁深く、球磨びとが最も尊敬し親しんできた神社である。
その上、頼みごとをすれば必ず叶えてくれると信頼も厚い。
「いいね、行こう」
殿は頷くや否や支度を始めた。
俺は殿と並んで豊作祈願をしながら、殿様の御ためがこれからも成就してゆくように、と願った。
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障子の外から雨の降る音が静かに聞こえるなか、部屋には殿が漬物を食べる音だけが聞こえていた。
膳の上には熱燗2本と漬物を盛った皿が並べられ、それが殿の晩酌である。
今日は静かに呑みたかったのか、殿は珍しく黙って盃を干し続けた。
キジ馬はすでに眠り、俺は仕事の残りを片付けていた。
黙っている間の殿は、当たり前であろうが無表情である。
なにを考えているのかはわからない。
「よりあに」
不意に殿が俺を呼んだ。
「白菜の漬物を丸ごと食べたらうまいと思う?」
これを聞いたとき、殿はなにか高尚なことを考えているのではないか、と若干期待を抱いていた自分に気が付いた。
「うまい不味い以前に、体に毒です」
「そうか。じゃあやめとこう」
殿はそう言い、箸で漬物をつまんで食べた。
「丸かじりしようと思っていたのですか」
「男なら大胆にね」
自信満々に答える殿様の御ため
「大胆、の方向性が少々ずれていると思われますが」
と、俺は妙な大胆を実行しようとしていた殿に釘を刺した。
やはり、殿には黙るより話していただかなければ、知らぬうちにおかしなことをされてしまう。
休日の今日は1日中本を読んで過ごした。
かつて読み学んだ本でも、目を通す回数が増えるほど、より深い意味を汲み取ることができるものだ。
読書というものは、他人が邪魔に入らない限り好きなように気楽に時間を過ごさせてくれるが、今日は深水頼蔵という邪魔が入ってしまった。
「頼兄殿ならなにか良い本をお持ちだと思いましたので」
違うことをしていたら「そんな本はない」と追い返したのだが、運悪く明らかに読書中であった。
俺は部屋の中の本を好きに探せと言い、読書を続けた。
すると早速頼蔵は机に積んである本を物色し、
「さすが犬童のお家ですね。このような珍しい本があるとは」
と、ある1冊を手に取り、いかにも読みたいと言わんばかりに目を輝かせた。
その本は、実家から持ち出した兵学書であった。
兵学は頼蔵の専門である。
貴重で高価な本だったが、
「読みたければ持って行け」
と、俺は貸し出すことを許した。
「まことですか、良いのですか」
許しが出るとは思ってもいなかったのか、頼蔵は子供のように歓声を上げた。
殿様の御ため、お前には兵学を究める義務があるからな」
もちろん、頼蔵が軍師でなければ、あのような貴重な本は貸さなかっただろう。
幾度も礼を言う頼蔵に「ただしきちんと返せ」と付け足し、俺はうるさい頼蔵を部屋から追い出した。

午後、久し振りに岡本頼氏殿に出会った。
俺は一礼して挨拶し、他愛ない世間話でもしようかと思ったが、頼氏殿が先に意外なことを俺に尋ねた。
「頼兄殿が最も鮮明に覚えている殿との思い出と言えば、なんですか」
突然のことに俺は呆気に取られたが、とりあえず真面目に考え、
「昔、殿が薩摩に行ったときのことはよく覚えていますが」
と答えた。
俺が薩摩まで送ることは許されず、御下門から出て行く殿の後ろ姿を、見えなくなるまで見送ることしかできなかった。
いつ帰って来られるのか、そもそもここに帰って来られるのか、まだ若かった俺にはそれが辛い種だった。
「なぜこのようなことをお尋ねになられたのですか」
「頼兄殿は、あのとき殿を薩摩に取られてしまったことを己の不甲斐なさとして受け取り、そのために、いま殿のために必死に御奉公しているのでしょう。あなたのような方が、狭量な他人の言葉で潰れてしまうとお家のためになりません。周囲のことは気にせず、これからも変わらず励んでください」
そう言うと、頼氏殿は「それだけです」と言い残して廊下を歩いていった。
きっと、噂で昨日のことを耳にしたのだろう。
いまの俺の殿様の御ためが昔の反動かどうかはわからないが、原動力があれば志が途切れることはない。
そして、事あるごとに俺を励ましてくれる頼氏殿に感謝したい。

時折、殿の机の上に与えた覚えのない菓子が置いてあることがある。
とくに近頃は頻繁に目にしているので、思い切って「これはどうしたのか」と訊ねてみると、頼んでもいないのに家臣が持って来たということだった。
かつては、嫌々ではあるが、俺も殿が腹が減ったと訴えれば握り飯やらなにやらを与えていた。
しかし、下心を持って食い物を出したことは一度もない。
「そうでしたか」
俺は殿にはなにも言わず、のちに廊下で会った同僚に、
「殿の機嫌取りのために菓子を贈るのはやめていただきたい」
と注意した。
すると、彼は
「あなたに比べれば可愛いことだと思いますけれど」
と、如何にも煙たげにそう答えた。
「俺が汚い手を使って殿に近づいたと言うか。根も葉もないことを」
語気荒く反論すると、相手は鼻で笑った。
「御家中の者の、あなたに対する雰囲気を見ればわかるでしょうに」
それは前々からよくわかっていることだった。
自分には、御家中には気心の知れた人は1人もいない。
しかし、諸人が憎しみをもっても、顧みぬほどの御奉公をするほどの人物こそ、忠貞と思し召される者なのだ。
「よりあにー」
殿が俺を呼ぶ声によって言い争いは中断された。
「うまく気に入られているようですね」
ひとつ嫌味を残し、相手は振り返って去っていった。
殿様の御ためならば、孤独になろうと憎まれようと、それは些細な問題にもならない。

 
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(劇)池田商会制作様
2008年9月14日、九州戦国史を描く演劇を上演されました
主役は犬童頼兄!



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キリ番訪い者様へのお返事
・1年目2月17日300訪いの方
ご訪問ありがとうございます。
「青森県弘前市に相良姓または犬童姓の人が今もいるのか」という内容のご意見をいただきました。申し訳ないことに管理人も断言できるほどの知識はありませんが、答えられる限りお答えしたいと思います。
根拠に用いるには説得力が疑われますが、Wikipediaによると、子孫は「名字を変えて」津軽藩に仕えたとあります。よって、相良姓・犬童姓は頼兄の代で終わったとも考えられます。しかし、犬童頼兄は津軽で罪人として扱われず、教養人として津軽藩の藩士の育成に貢献していたようですから、わざわざ身の上を憚り名字を変える必要性は無かったのではないでしょうか。さらに、町の名前として弘前市相良町が残っています。このことからも、仮に一旦頼兄の代で相良姓が絶えたとしても、江戸期に家系を遡り相良姓を再び名乗り始めた可能性も考えられます。
憶測ばかりで答えになっておりませんが、管理人は今も相良姓を名乗る人がいるのではないかと思っております。この度はご訪問・ご意見ありがとうございました。
※結論確定いたしました※
人吉城歴史館の学芸員の方にお話をお伺いして参りました。
人吉にも弘前にも、流罪後の頼兄に関する史料は残っていないようです。そのため、弘前に頼兄つながりの相良姓・犬童姓が残ったかどうかを確認することはできかねるということでした。
よりあに書簡
メールフォームです。
お気軽にどうぞ。
よりあに書簡(別窓開きます)
相良頼房史実プロフィール
1574年生まれ。
第18代当主・義陽の次男として生まれ、父の戦死後は人質として薩摩に赴き、兄の死後は第20代当主となった。
関ヶ原合戦や大阪の陣を経験する。
犬童頼兄の補佐を受け、数々の場面で助けられるも、彼の勝手な振る舞いが悩みの種だった。
犬童頼兄史実プロフィール
生年不詳。
生家の犬童家は、肥後の奥地を治める相良氏に代々仕える。
相良家の2万2000石に対し、半分近い8000石を有した。
のちに相良頼兄、相良清兵衛頼兄と名乗る。
主家の維持に尽力するも、後年、専横の振舞いが目立ったため主家によって幕府に訴えられ、津軽藩に流される。
それに反発した一族が相良家に乱を起こし、一族全員121人が討死した。
弘前市相良町は頼兄の屋敷地に由来する。
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