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マイナー武将のメジャー家老・犬童頼兄による日記。
 
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殿と二の丸を散歩していると、黄色く染まったイチョウの木の前にたどり着いた。
葉はだいぶ散りかけ、掃除も追いつかないほどに辺りに落葉が分厚く積み重なっていた。
「よりあに」
イチョウの木を見上げて、殿が俺を呼んだ。
「茶碗蒸しが食べたい」
殿はなんらためらうこともなく、切実な顔で俺にそう言った。
イチョウを見て銀杏を思い出し、それから茶碗蒸しを連想するところが誠に殿らしい。
俺は足元に落ちていた実を拾い、
「しかし、銀杏はすぐには食べられませんよ」
と言った。
すると殿は残念そうな顔をした。
「そうか…そうだよね」
殿の好きな熊本城には、至る所にイチョウが植えられている。
加藤清正曰く、銀杏は籠城時の非常食であるそうだが、この時期はよく茶碗蒸しになって食卓に上るらしい。
かつて聞いたその話が、殿の茶碗蒸しを食いたいという気持ちをよりいっそうかき立てるのだろう。
部屋に戻ったあと、俺は殿様の御ため、念のため台所に食える銀杏があるか否かを訊ねに行った。
「はい、ございますよ」
快活な返事が返ってきた。
さすが、食い意地の張った殿様に仕える者たちである。
殿が茶碗蒸しを食いたいと言い始めることを予測して、前々から下準備を進めていたらしい。
「もっと早くご報告すべきでした」と反省しつつも、卵などはすぐに手に入るよう手筈を整えているなどの有能ぶりであった。
俺はこの旨を殿に報告し、茶碗蒸しが夕食に出ることを告げると、殿はとても喜んでいた。
どんなことにせよ、殿に喜んでいただけることほどやり甲斐を感じることはない。
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今日は先々代の命日だった。
殿は墓参りのために相良家菩提寺に行き、俺も同行した。
幸い天気にも恵まれた。
普段ならよく喋る殿であるが、口数は少ない。
ただ俺の視線に気が付くと、いつものように愛想よく微笑んだ。
悪さをしてはしょっちゅう父親に叱られていた殿だが、「当主とその息子」といった固い関係ではなく、「父親と息子」といった自然な仲だった。
そのぶん、義陽公が戦死したと聞いたときの衝撃は大きかったのではないだろうか。
そして、いまでもその事実を引きずりながら生きているのではないだろうか。
殿様の御ため、俺は今日1日は口うるさく注意するのをやめた。
すると、静かな部屋の中で、殿が呟いた。
「父さんがそこに居るね」
殿の部屋、つまり代々の当主の部屋の中央を見て、殿は懐かしそうに笑った。
俺はあまり笑えなかった
先月半ばに日記を1日書いてから、再び書けない日々が続いていた。
今年最後の1ヶ月くらいは、忙しくとも記していきたいと思う。
さて。
月初めの恒例と言えば、深水頼蔵による会計調査である。
師走の今月も、奴はやってきた。
「さすがに先月は忙しかったので、出費もキジ馬の食費半頭分に減りましたか」
相変わらずの笑顔で奴はそう言った。
俺が適当に聞き流していると、
「そう言えば、頼兄殿。ご存知ですか」
頼蔵がなにかを思いついた。
「『くりすます』では、大事な人に贈り物をするしきたりだそうですよ」
「俺は切支丹ではないから、そんなことはしない」
頼蔵の言を一蹴すると、奴は俺を見て小さく笑った。
「あなたのことだ。くりすますと言わずとも、なんやかやと理由をつけて、休みには可愛い甥っ子や姪っ子になにかあげるつもりなのではないですか?現に、もうお年玉の準備は始めているとか?」
図星だった
俺はただ「うるさい」としか反論できず、頼蔵に会計書類を押し付け、部屋から追い出した。
ようやく邪魔者がいなくなった、とふと辺りを見回すと、炬燵布団の中に動くものがあった。
もしやと思いつつ布団をめくると、やはり殿のキジ馬だった。
近頃寒いからか、気が付くとよく俺の炬燵に入り込んでいる。
殿様の御ため、俺はキジ馬を予備の襟巻きにくるみ、抱えて殿の部屋に連れて行った。

先月末から立て込んでいた仕事が片付いた。
今夜は久々に本を手に取り、炬燵で茶を飲みながら読書を楽しんだ。
それにしても、日記を控えていた3週間ほどで随分寒くなったものだ。
空は青く日差しが差していようとも、風は目が覚めるくらい冷たくなった。
それと並行して、廊下で交わす挨拶も二言目には「寒くなりましたね」と聞くことが多くなった。
季節の変わり目、特に冬になるときは人は敏感である。
夏よりも身に染みて肌で季節を感じられるからであろうか。
それとも、あまりにも変化してしまう木々の葉の色だろうか。
この間見たときは艶のいい緑色をしていたのに、ふと気が付くと黄みを帯び、そしてふと振り返ると木の根元が黄色く染まっている。
俳句の季語などをいくら並べ立てても、この景色以上に秋を訴えかけることはできないだろう。
「明日の昼は外で食べようよ」
仕事を終え、伸びをしながら外を見て、殿はそう言った。
きっと明日も寒いだろう。
しかし、俺は頷いた。
一瞬と言われる秋の姿に興味を持った殿様の御ためならば、寒風もまた風流なものである。

年の瀬が近づくと、年内に仕上げねばならない仕事の他に、私的な新年行事の準備にも追われる。
たとえば、年賀状である。
俺は毎年、城下の絵師にキジ馬の絵を描かせている。
今年もまた、挨拶文のみを記した年賀状を彼のもとに持ってゆき、キジ馬を描かせねばならない。
また、加藤や島津への年賀状は最も気を遣う。
これらは殿が送り主として出し、俺と深水頼蔵の名を隅に書く程度で済ませる。
しかし、殿は年賀状の準備が遅い。
とにかく遅い。
なぜなら、挨拶文を書く位置や文字の色、全体の構成に悩み、その上キジ馬の絵を自ら描くからである。
おかげで毎年、飛脚にとにかく配達を急ぐよう頼み込まねばならない始末である。
頼蔵は「凝った年賀状を送られると感心するものです。良いではありませんか」と言う。
が、俺は年末年始まで胃の痛む思いはしたくない。
早めに年賀状を調達し、殿に書かせ始めたいものだ。
物事を余裕を持って仕上げることを覚えさせるのも、殿様の御ためである。

そう言えば、小西行長が「くりすます」という切支丹の行事に取り組み始めたと聞く。
「くりすます」が最も盛り上がる日の夜には、「けいき」という甘い菓子を作って食べるらしい。
このくには基督教を禁止しているが、殿が羨むのでそのような情報は国内で厳重に管理して欲しい。
殿が「けいき」を食いたがって仕様がないのである。
基督教自体ではなく、その一環のけいきに興味を持っただけでも、法華経愛好者で基督教嫌いの加藤清正になにをされるかわかったものではないのだ。
 
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(劇)池田商会制作様
2008年9月14日、九州戦国史を描く演劇を上演されました
主役は犬童頼兄!



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キリ番訪い者様へのお返事
・1年目2月17日300訪いの方
ご訪問ありがとうございます。
「青森県弘前市に相良姓または犬童姓の人が今もいるのか」という内容のご意見をいただきました。申し訳ないことに管理人も断言できるほどの知識はありませんが、答えられる限りお答えしたいと思います。
根拠に用いるには説得力が疑われますが、Wikipediaによると、子孫は「名字を変えて」津軽藩に仕えたとあります。よって、相良姓・犬童姓は頼兄の代で終わったとも考えられます。しかし、犬童頼兄は津軽で罪人として扱われず、教養人として津軽藩の藩士の育成に貢献していたようですから、わざわざ身の上を憚り名字を変える必要性は無かったのではないでしょうか。さらに、町の名前として弘前市相良町が残っています。このことからも、仮に一旦頼兄の代で相良姓が絶えたとしても、江戸期に家系を遡り相良姓を再び名乗り始めた可能性も考えられます。
憶測ばかりで答えになっておりませんが、管理人は今も相良姓を名乗る人がいるのではないかと思っております。この度はご訪問・ご意見ありがとうございました。
※結論確定いたしました※
人吉城歴史館の学芸員の方にお話をお伺いして参りました。
人吉にも弘前にも、流罪後の頼兄に関する史料は残っていないようです。そのため、弘前に頼兄つながりの相良姓・犬童姓が残ったかどうかを確認することはできかねるということでした。
よりあに書簡
メールフォームです。
お気軽にどうぞ。
よりあに書簡(別窓開きます)
相良頼房史実プロフィール
1574年生まれ。
第18代当主・義陽の次男として生まれ、父の戦死後は人質として薩摩に赴き、兄の死後は第20代当主となった。
関ヶ原合戦や大阪の陣を経験する。
犬童頼兄の補佐を受け、数々の場面で助けられるも、彼の勝手な振る舞いが悩みの種だった。
犬童頼兄史実プロフィール
生年不詳。
生家の犬童家は、肥後の奥地を治める相良氏に代々仕える。
相良家の2万2000石に対し、半分近い8000石を有した。
のちに相良頼兄、相良清兵衛頼兄と名乗る。
主家の維持に尽力するも、後年、専横の振舞いが目立ったため主家によって幕府に訴えられ、津軽藩に流される。
それに反発した一族が相良家に乱を起こし、一族全員121人が討死した。
弘前市相良町は頼兄の屋敷地に由来する。
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犬童頼兄
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相良家筆頭家老
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