殿と二の丸を散歩していると、黄色く染まったイチョウの木の前にたどり着いた。
葉はだいぶ散りかけ、掃除も追いつかないほどに辺りに落葉が分厚く積み重なっていた。
「よりあに」
イチョウの木を見上げて、殿が俺を呼んだ。
「茶碗蒸しが食べたい」
殿はなんらためらうこともなく、切実な顔で俺にそう言った。
イチョウを見て銀杏を思い出し、それから茶碗蒸しを連想するところが誠に殿らしい。
俺は足元に落ちていた実を拾い、
「しかし、銀杏はすぐには食べられませんよ」
と言った。
すると殿は残念そうな顔をした。
「そうか…そうだよね」
殿の好きな熊本城には、至る所にイチョウが植えられている。
加藤清正曰く、銀杏は籠城時の非常食であるそうだが、この時期はよく茶碗蒸しになって食卓に上るらしい。
かつて聞いたその話が、殿の茶碗蒸しを食いたいという気持ちをよりいっそうかき立てるのだろう。
部屋に戻ったあと、俺は殿様の御ため、念のため台所に食える銀杏があるか否かを訊ねに行った。
「はい、ございますよ」
快活な返事が返ってきた。
さすが、食い意地の張った殿様に仕える者たちである。
殿が茶碗蒸しを食いたいと言い始めることを予測して、前々から下準備を進めていたらしい。
「もっと早くご報告すべきでした」と反省しつつも、卵などはすぐに手に入るよう手筈を整えているなどの有能ぶりであった。
俺はこの旨を殿に報告し、茶碗蒸しが夕食に出ることを告げると、殿はとても喜んでいた。
どんなことにせよ、殿に喜んでいただけることほどやり甲斐を感じることはない。
葉はだいぶ散りかけ、掃除も追いつかないほどに辺りに落葉が分厚く積み重なっていた。
「よりあに」
イチョウの木を見上げて、殿が俺を呼んだ。
「茶碗蒸しが食べたい」
殿はなんらためらうこともなく、切実な顔で俺にそう言った。
イチョウを見て銀杏を思い出し、それから茶碗蒸しを連想するところが誠に殿らしい。
俺は足元に落ちていた実を拾い、
「しかし、銀杏はすぐには食べられませんよ」
と言った。
すると殿は残念そうな顔をした。
「そうか…そうだよね」
殿の好きな熊本城には、至る所にイチョウが植えられている。
加藤清正曰く、銀杏は籠城時の非常食であるそうだが、この時期はよく茶碗蒸しになって食卓に上るらしい。
かつて聞いたその話が、殿の茶碗蒸しを食いたいという気持ちをよりいっそうかき立てるのだろう。
部屋に戻ったあと、俺は殿様の御ため、念のため台所に食える銀杏があるか否かを訊ねに行った。
「はい、ございますよ」
快活な返事が返ってきた。
さすが、食い意地の張った殿様に仕える者たちである。
殿が茶碗蒸しを食いたいと言い始めることを予測して、前々から下準備を進めていたらしい。
「もっと早くご報告すべきでした」と反省しつつも、卵などはすぐに手に入るよう手筈を整えているなどの有能ぶりであった。
俺はこの旨を殿に報告し、茶碗蒸しが夕食に出ることを告げると、殿はとても喜んでいた。
どんなことにせよ、殿に喜んでいただけることほどやり甲斐を感じることはない。
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今日は先々代の命日だった。
殿は墓参りのために相良家菩提寺に行き、俺も同行した。
幸い天気にも恵まれた。
普段ならよく喋る殿であるが、口数は少ない。
ただ俺の視線に気が付くと、いつものように愛想よく微笑んだ。
悪さをしてはしょっちゅう父親に叱られていた殿だが、「当主とその息子」といった固い関係ではなく、「父親と息子」といった自然な仲だった。
そのぶん、義陽公が戦死したと聞いたときの衝撃は大きかったのではないだろうか。
そして、いまでもその事実を引きずりながら生きているのではないだろうか。
殿様の御ため、俺は今日1日は口うるさく注意するのをやめた。
すると、静かな部屋の中で、殿が呟いた。
「父さんがそこに居るね」
殿の部屋、つまり代々の当主の部屋の中央を見て、殿は懐かしそうに笑った。
俺はあまり笑えなかった。
殿は墓参りのために相良家菩提寺に行き、俺も同行した。
幸い天気にも恵まれた。
普段ならよく喋る殿であるが、口数は少ない。
ただ俺の視線に気が付くと、いつものように愛想よく微笑んだ。
悪さをしてはしょっちゅう父親に叱られていた殿だが、「当主とその息子」といった固い関係ではなく、「父親と息子」といった自然な仲だった。
そのぶん、義陽公が戦死したと聞いたときの衝撃は大きかったのではないだろうか。
そして、いまでもその事実を引きずりながら生きているのではないだろうか。
殿様の御ため、俺は今日1日は口うるさく注意するのをやめた。
すると、静かな部屋の中で、殿が呟いた。
「父さんがそこに居るね」
殿の部屋、つまり代々の当主の部屋の中央を見て、殿は懐かしそうに笑った。
俺はあまり笑えなかった。
先月半ばに日記を1日書いてから、再び書けない日々が続いていた。
今年最後の1ヶ月くらいは、忙しくとも記していきたいと思う。
さて。
月初めの恒例と言えば、深水頼蔵による会計調査である。
師走の今月も、奴はやってきた。
「さすがに先月は忙しかったので、出費もキジ馬の食費半頭分に減りましたか」
相変わらずの笑顔で奴はそう言った。
俺が適当に聞き流していると、
「そう言えば、頼兄殿。ご存知ですか」
頼蔵がなにかを思いついた。
「『くりすます』では、大事な人に贈り物をするしきたりだそうですよ」
「俺は切支丹ではないから、そんなことはしない」
頼蔵の言を一蹴すると、奴は俺を見て小さく笑った。
「あなたのことだ。くりすますと言わずとも、なんやかやと理由をつけて、休みには可愛い甥っ子や姪っ子になにかあげるつもりなのではないですか?現に、もうお年玉の準備は始めているとか?」
図星だった。
俺はただ「うるさい」としか反論できず、頼蔵に会計書類を押し付け、部屋から追い出した。
ようやく邪魔者がいなくなった、とふと辺りを見回すと、炬燵布団の中に動くものがあった。
もしやと思いつつ布団をめくると、やはり殿のキジ馬だった。
近頃寒いからか、気が付くとよく俺の炬燵に入り込んでいる。
殿様の御ため、俺はキジ馬を予備の襟巻きにくるみ、抱えて殿の部屋に連れて行った。
今年最後の1ヶ月くらいは、忙しくとも記していきたいと思う。
さて。
月初めの恒例と言えば、深水頼蔵による会計調査である。
師走の今月も、奴はやってきた。
「さすがに先月は忙しかったので、出費もキジ馬の食費半頭分に減りましたか」
相変わらずの笑顔で奴はそう言った。
俺が適当に聞き流していると、
「そう言えば、頼兄殿。ご存知ですか」
頼蔵がなにかを思いついた。
「『くりすます』では、大事な人に贈り物をするしきたりだそうですよ」
「俺は切支丹ではないから、そんなことはしない」
頼蔵の言を一蹴すると、奴は俺を見て小さく笑った。
「あなたのことだ。くりすますと言わずとも、なんやかやと理由をつけて、休みには可愛い甥っ子や姪っ子になにかあげるつもりなのではないですか?現に、もうお年玉の準備は始めているとか?」
図星だった。
俺はただ「うるさい」としか反論できず、頼蔵に会計書類を押し付け、部屋から追い出した。
ようやく邪魔者がいなくなった、とふと辺りを見回すと、炬燵布団の中に動くものがあった。
もしやと思いつつ布団をめくると、やはり殿のキジ馬だった。
近頃寒いからか、気が付くとよく俺の炬燵に入り込んでいる。
殿様の御ため、俺はキジ馬を予備の襟巻きにくるみ、抱えて殿の部屋に連れて行った。
先月末から立て込んでいた仕事が片付いた。
今夜は久々に本を手に取り、炬燵で茶を飲みながら読書を楽しんだ。
それにしても、日記を控えていた3週間ほどで随分寒くなったものだ。
空は青く日差しが差していようとも、風は目が覚めるくらい冷たくなった。
それと並行して、廊下で交わす挨拶も二言目には「寒くなりましたね」と聞くことが多くなった。
季節の変わり目、特に冬になるときは人は敏感である。
夏よりも身に染みて肌で季節を感じられるからであろうか。
それとも、あまりにも変化してしまう木々の葉の色だろうか。
この間見たときは艶のいい緑色をしていたのに、ふと気が付くと黄みを帯び、そしてふと振り返ると木の根元が黄色く染まっている。
俳句の季語などをいくら並べ立てても、この景色以上に秋を訴えかけることはできないだろう。
「明日の昼は外で食べようよ」
仕事を終え、伸びをしながら外を見て、殿はそう言った。
きっと明日も寒いだろう。
しかし、俺は頷いた。
一瞬と言われる秋の姿に興味を持った殿様の御ためならば、寒風もまた風流なものである。
年の瀬が近づくと、年内に仕上げねばならない仕事の他に、私的な新年行事の準備にも追われる。
たとえば、年賀状である。
俺は毎年、城下の絵師にキジ馬の絵を描かせている。
今年もまた、挨拶文のみを記した年賀状を彼のもとに持ってゆき、キジ馬を描かせねばならない。
また、加藤や島津への年賀状は最も気を遣う。
これらは殿が送り主として出し、俺と深水頼蔵の名を隅に書く程度で済ませる。
しかし、殿は年賀状の準備が遅い。
とにかく遅い。
なぜなら、挨拶文を書く位置や文字の色、全体の構成に悩み、その上キジ馬の絵を自ら描くからである。
おかげで毎年、飛脚にとにかく配達を急ぐよう頼み込まねばならない始末である。
頼蔵は「凝った年賀状を送られると感心するものです。良いではありませんか」と言う。
が、俺は年末年始まで胃の痛む思いはしたくない。
早めに年賀状を調達し、殿に書かせ始めたいものだ。
物事を余裕を持って仕上げることを覚えさせるのも、殿様の御ためである。
そう言えば、小西行長が「くりすます」という切支丹の行事に取り組み始めたと聞く。
「くりすます」が最も盛り上がる日の夜には、「けいき」という甘い菓子を作って食べるらしい。
このくには基督教を禁止しているが、殿が羨むのでそのような情報は国内で厳重に管理して欲しい。
殿が「けいき」を食いたがって仕様がないのである。
基督教自体ではなく、その一環のけいきに興味を持っただけでも、法華経愛好者で基督教嫌いの加藤清正になにをされるかわかったものではないのだ。
たとえば、年賀状である。
俺は毎年、城下の絵師にキジ馬の絵を描かせている。
今年もまた、挨拶文のみを記した年賀状を彼のもとに持ってゆき、キジ馬を描かせねばならない。
また、加藤や島津への年賀状は最も気を遣う。
これらは殿が送り主として出し、俺と深水頼蔵の名を隅に書く程度で済ませる。
しかし、殿は年賀状の準備が遅い。
とにかく遅い。
なぜなら、挨拶文を書く位置や文字の色、全体の構成に悩み、その上キジ馬の絵を自ら描くからである。
おかげで毎年、飛脚にとにかく配達を急ぐよう頼み込まねばならない始末である。
頼蔵は「凝った年賀状を送られると感心するものです。良いではありませんか」と言う。
が、俺は年末年始まで胃の痛む思いはしたくない。
早めに年賀状を調達し、殿に書かせ始めたいものだ。
物事を余裕を持って仕上げることを覚えさせるのも、殿様の御ためである。
そう言えば、小西行長が「くりすます」という切支丹の行事に取り組み始めたと聞く。
「くりすます」が最も盛り上がる日の夜には、「けいき」という甘い菓子を作って食べるらしい。
このくには基督教を禁止しているが、殿が羨むのでそのような情報は国内で厳重に管理して欲しい。
殿が「けいき」を食いたがって仕様がないのである。
基督教自体ではなく、その一環のけいきに興味を持っただけでも、法華経愛好者で基督教嫌いの加藤清正になにをされるかわかったものではないのだ。