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マイナー武将のメジャー家老・犬童頼兄による日記。
 
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殿と二の丸を散歩していると、黄色く染まったイチョウの木の前にたどり着いた。
葉はだいぶ散りかけ、掃除も追いつかないほどに辺りに落葉が分厚く積み重なっていた。
「よりあに」
イチョウの木を見上げて、殿が俺を呼んだ。
「茶碗蒸しが食べたい」
殿はなんらためらうこともなく、切実な顔で俺にそう言った。
イチョウを見て銀杏を思い出し、それから茶碗蒸しを連想するところが誠に殿らしい。
俺は足元に落ちていた実を拾い、
「しかし、銀杏はすぐには食べられませんよ」
と言った。
すると殿は残念そうな顔をした。
「そうか…そうだよね」
殿の好きな熊本城には、至る所にイチョウが植えられている。
加藤清正曰く、銀杏は籠城時の非常食であるそうだが、この時期はよく茶碗蒸しになって食卓に上るらしい。
かつて聞いたその話が、殿の茶碗蒸しを食いたいという気持ちをよりいっそうかき立てるのだろう。
部屋に戻ったあと、俺は殿様の御ため、念のため台所に食える銀杏があるか否かを訊ねに行った。
「はい、ございますよ」
快活な返事が返ってきた。
さすが、食い意地の張った殿様に仕える者たちである。
殿が茶碗蒸しを食いたいと言い始めることを予測して、前々から下準備を進めていたらしい。
「もっと早くご報告すべきでした」と反省しつつも、卵などはすぐに手に入るよう手筈を整えているなどの有能ぶりであった。
俺はこの旨を殿に報告し、茶碗蒸しが夕食に出ることを告げると、殿はとても喜んでいた。
どんなことにせよ、殿に喜んでいただけることほどやり甲斐を感じることはない。
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(劇)池田商会制作様
2008年9月14日、九州戦国史を描く演劇を上演されました
主役は犬童頼兄!



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キリ番訪い者様へのお返事
・1年目2月17日300訪いの方
ご訪問ありがとうございます。
「青森県弘前市に相良姓または犬童姓の人が今もいるのか」という内容のご意見をいただきました。申し訳ないことに管理人も断言できるほどの知識はありませんが、答えられる限りお答えしたいと思います。
根拠に用いるには説得力が疑われますが、Wikipediaによると、子孫は「名字を変えて」津軽藩に仕えたとあります。よって、相良姓・犬童姓は頼兄の代で終わったとも考えられます。しかし、犬童頼兄は津軽で罪人として扱われず、教養人として津軽藩の藩士の育成に貢献していたようですから、わざわざ身の上を憚り名字を変える必要性は無かったのではないでしょうか。さらに、町の名前として弘前市相良町が残っています。このことからも、仮に一旦頼兄の代で相良姓が絶えたとしても、江戸期に家系を遡り相良姓を再び名乗り始めた可能性も考えられます。
憶測ばかりで答えになっておりませんが、管理人は今も相良姓を名乗る人がいるのではないかと思っております。この度はご訪問・ご意見ありがとうございました。
※結論確定いたしました※
人吉城歴史館の学芸員の方にお話をお伺いして参りました。
人吉にも弘前にも、流罪後の頼兄に関する史料は残っていないようです。そのため、弘前に頼兄つながりの相良姓・犬童姓が残ったかどうかを確認することはできかねるということでした。
よりあに書簡
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よりあに書簡(別窓開きます)
相良頼房史実プロフィール
1574年生まれ。
第18代当主・義陽の次男として生まれ、父の戦死後は人質として薩摩に赴き、兄の死後は第20代当主となった。
関ヶ原合戦や大阪の陣を経験する。
犬童頼兄の補佐を受け、数々の場面で助けられるも、彼の勝手な振る舞いが悩みの種だった。
犬童頼兄史実プロフィール
生年不詳。
生家の犬童家は、肥後の奥地を治める相良氏に代々仕える。
相良家の2万2000石に対し、半分近い8000石を有した。
のちに相良頼兄、相良清兵衛頼兄と名乗る。
主家の維持に尽力するも、後年、専横の振舞いが目立ったため主家によって幕府に訴えられ、津軽藩に流される。
それに反発した一族が相良家に乱を起こし、一族全員121人が討死した。
弘前市相良町は頼兄の屋敷地に由来する。
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HN:
犬童頼兄
性別:
非公開
職業:
相良家筆頭家老
趣味:
策略謀略
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