殿は毎日、ぼんやりと過ごしているように見えるが、内では大きな賭けに出ている。
島津の幕下として弟を島津家に人質に差し出している反面、実際は中央に出来上がりつつある秀吉の政権に内通している。
熊本の加藤清正と懇意にしているのは、そのためである。
よって、のちのち起こるであろう島津と中央の衝突の際には、中央に付くことになる。
もちろん、そうすれば殿の弟は殺されるであろう。
それも殿は呑んだ。
この話は、殿が家督を継いだときから成立している。
同じ頃に島津に人質に出した弟は、捨てたも同然であった。
7月初旬に薩摩に赴いた際、殿は弟の長誠様に会ったが、そのとき改めてこの話をしたそうだ。
「あいつは賢いから、5年前に話したことも全部覚えていたよ」
その上で、
「お家のためになるのなら、私はどうなっても構いません、って言ってた」
殿は、膝に抱いたキジ馬の背を撫でながらそう言った。
熊本にまで押し寄せてきた官の勢力と、ともすれば列島を征服しかねない薩摩の島津の勢力に挟まれ、この相良家は絶えず両者の顔色を見極めねばならない立場に立たされている。
作り笑いによる外交は、もはや当家のお家芸であるが、それもいつまで通用するのか。
殿様の御ため、相良家の御ために働く者には、近く正念場が訪れることだろう。
島津の幕下として弟を島津家に人質に差し出している反面、実際は中央に出来上がりつつある秀吉の政権に内通している。
熊本の加藤清正と懇意にしているのは、そのためである。
よって、のちのち起こるであろう島津と中央の衝突の際には、中央に付くことになる。
もちろん、そうすれば殿の弟は殺されるであろう。
それも殿は呑んだ。
この話は、殿が家督を継いだときから成立している。
同じ頃に島津に人質に出した弟は、捨てたも同然であった。
7月初旬に薩摩に赴いた際、殿は弟の長誠様に会ったが、そのとき改めてこの話をしたそうだ。
「あいつは賢いから、5年前に話したことも全部覚えていたよ」
その上で、
「お家のためになるのなら、私はどうなっても構いません、って言ってた」
殿は、膝に抱いたキジ馬の背を撫でながらそう言った。
熊本にまで押し寄せてきた官の勢力と、ともすれば列島を征服しかねない薩摩の島津の勢力に挟まれ、この相良家は絶えず両者の顔色を見極めねばならない立場に立たされている。
作り笑いによる外交は、もはや当家のお家芸であるが、それもいつまで通用するのか。
殿様の御ため、相良家の御ために働く者には、近く正念場が訪れることだろう。
PR
先日、9月の中頃に熊本にゆく旨を書いた書状を加藤清正に送ったのだが、その返事が返ってきた。
「おいしいものを用意して待っててくれるって」
書状を読んだ殿は浮かれながら、暦に熊本行きの予定を書き込んだ。
しかしふと筆を止め、
「よりあにも来てくれるよね?」
と若干縋るような目で俺のほうを見た。
俺は、もちろんお供させていただきます、と答えた。
すると、殿は安堵した表情を浮かべ、朱色の墨で出発予定日の13日に花丸をつけた。
「また僕が変なことを言わないように、目で殺してくれる人がいないと困るんだ」
「お言葉ですが、目で制する、ではないのですか」
俺がそう言うと、
「頼蔵は制するだけど、よりあには殺してくれるよ。わかりやすくて好きだ」
俺は一応、誉め言葉として、そのお言葉を有難く頂戴することにした。
殿はかつて、秀吉公から大目玉を喰らったことがある。
そのときは、頼蔵の祖父である深水宗方が大阪に急ぎ赴き、なんとか弁明を果たして事無きを得た。
あのようなことが再び起こらないように、殿も殿なりに気をつけているようだ。
「では、殿の御ため、ここぞという際は遠慮なく目で殺させていただきます」
殿は笑っていたが、ふとぼそりと呟いた。
「昔、僕がよりあにの襟巻きにじゃれついたときのよりあにの目…いまだに覚えてるよ」
トラウマになっているじゃないですか。
「おいしいものを用意して待っててくれるって」
書状を読んだ殿は浮かれながら、暦に熊本行きの予定を書き込んだ。
しかしふと筆を止め、
「よりあにも来てくれるよね?」
と若干縋るような目で俺のほうを見た。
俺は、もちろんお供させていただきます、と答えた。
すると、殿は安堵した表情を浮かべ、朱色の墨で出発予定日の13日に花丸をつけた。
「また僕が変なことを言わないように、目で殺してくれる人がいないと困るんだ」
「お言葉ですが、目で制する、ではないのですか」
俺がそう言うと、
「頼蔵は制するだけど、よりあには殺してくれるよ。わかりやすくて好きだ」
俺は一応、誉め言葉として、そのお言葉を有難く頂戴することにした。
殿はかつて、秀吉公から大目玉を喰らったことがある。
そのときは、頼蔵の祖父である深水宗方が大阪に急ぎ赴き、なんとか弁明を果たして事無きを得た。
あのようなことが再び起こらないように、殿も殿なりに気をつけているようだ。
「では、殿の御ため、ここぞという際は遠慮なく目で殺させていただきます」
殿は笑っていたが、ふとぼそりと呟いた。
「昔、僕がよりあにの襟巻きにじゃれついたときのよりあにの目…いまだに覚えてるよ」
トラウマになっているじゃないですか。
1週間の盆休みも終わり、今日から再び仕事が始まった。
とりあえず今日は、盆休みのことを書きたいと思う。
休みの中頃に、嫁に行った姉上が帰ってきた。
12歳の娘、10歳の長男、飛んで4歳の末娘も連れてきていた。
玄関に出て4人を迎えた父は、滅多に会えない孫たちを猫かわいがりしていた。
俺は日当たりのいい縁側にいたのだが、どうしてそこにいると分かったのか、姉上がやってきて
「頼兄ちゃん、久し振りね」
と言った。
姉上はむかしから、俺を「ちゃん」付けで呼ぶ。
十代半ばの頃はそれが恥ずかしかったが、この年になると不似合いも甚だしく、それゆえにかあまり気にならなくなった。
俺を見て、相変わらず日向ぼっこが好きなのね、と笑うと、
「そんな暑いところじゃなくて、こっちにいらっしゃい」
と、姉上は俺を居間へ誘った。
姉上が帰ってきたらすぐ昼食にする予定だったので、すでに居間はその準備が整っていた。
父は、末の孫娘を膝に抱いて席に座っていた。
食事中、姉上の嫁ぎ先の跡取りである10歳の長男が、俺に刀を教えて欲しいと言った。
もちろん承諾したが、この年頃の子供は、それなりに力が付いてくる上に無茶をする。
殿の兄や殿にも教えてきたが、よく型破りの剣術に困らされたものだ。
その日も結局、自由気ままな剣術に翻弄された。
しかし、なかなか嬉しいこともあった。
夜、上の娘が俺の部屋にやってきて、風呂敷包みを渡した。
訊けば、中身は襟巻きだと言う。
母に教わりながら、毎日少しずつ編み続けたようであった。
所々がいびつであるが、それもむしろ微笑ましく思った。
まさか姪からこのようなものを貰えるとは思ってもいなかったので、らしくもなく感動した。
今日はその襟巻きをつけて殿に朝の挨拶に伺ったところ、
「それ、新しい襟巻きだね」
と、殿はめざとく気付いた。
詳しく話すと、殿は「いいなぁ、羨ましいよ」といつもの笑顔で言った。
俺は先に姪ができたが、殿は姪より嫁が先でなければ、と思った。
とりあえず今日は、盆休みのことを書きたいと思う。
休みの中頃に、嫁に行った姉上が帰ってきた。
12歳の娘、10歳の長男、飛んで4歳の末娘も連れてきていた。
玄関に出て4人を迎えた父は、滅多に会えない孫たちを猫かわいがりしていた。
俺は日当たりのいい縁側にいたのだが、どうしてそこにいると分かったのか、姉上がやってきて
「頼兄ちゃん、久し振りね」
と言った。
姉上はむかしから、俺を「ちゃん」付けで呼ぶ。
十代半ばの頃はそれが恥ずかしかったが、この年になると不似合いも甚だしく、それゆえにかあまり気にならなくなった。
俺を見て、相変わらず日向ぼっこが好きなのね、と笑うと、
「そんな暑いところじゃなくて、こっちにいらっしゃい」
と、姉上は俺を居間へ誘った。
姉上が帰ってきたらすぐ昼食にする予定だったので、すでに居間はその準備が整っていた。
父は、末の孫娘を膝に抱いて席に座っていた。
食事中、姉上の嫁ぎ先の跡取りである10歳の長男が、俺に刀を教えて欲しいと言った。
もちろん承諾したが、この年頃の子供は、それなりに力が付いてくる上に無茶をする。
殿の兄や殿にも教えてきたが、よく型破りの剣術に困らされたものだ。
その日も結局、自由気ままな剣術に翻弄された。
しかし、なかなか嬉しいこともあった。
夜、上の娘が俺の部屋にやってきて、風呂敷包みを渡した。
訊けば、中身は襟巻きだと言う。
母に教わりながら、毎日少しずつ編み続けたようであった。
所々がいびつであるが、それもむしろ微笑ましく思った。
まさか姪からこのようなものを貰えるとは思ってもいなかったので、らしくもなく感動した。
今日はその襟巻きをつけて殿に朝の挨拶に伺ったところ、
「それ、新しい襟巻きだね」
と、殿はめざとく気付いた。
詳しく話すと、殿は「いいなぁ、羨ましいよ」といつもの笑顔で言った。
俺は先に姪ができたが、殿は姪より嫁が先でなければ、と思った。
久し振りの日記になる。
盆休み前だったので、ここ数日仕事が立て込んでいたのだ。
明日より4日間、皆各々に実家に帰るなどして休みを過ごす。
殿にも訊かれたが、俺はどう過ごすかを考えている。
殿が小さい頃は、殿が離れたがらなかったので連れて帰ったり、もしくは俺が半日だけ帰り、あとは城で過ごしたりしていた。
しかし、殿もいい年である。
俺がいなくとも、好きに遊んで過ごすであろう。
よって、今年の盆休みは実家で気ままに休むことに決めた。
嫁に行った姉上も1日くらい帰ってくるだろうから、久々にゆっくり話でもしてみようかと思う。
盆休み前だったので、ここ数日仕事が立て込んでいたのだ。
明日より4日間、皆各々に実家に帰るなどして休みを過ごす。
殿にも訊かれたが、俺はどう過ごすかを考えている。
殿が小さい頃は、殿が離れたがらなかったので連れて帰ったり、もしくは俺が半日だけ帰り、あとは城で過ごしたりしていた。
しかし、殿もいい年である。
俺がいなくとも、好きに遊んで過ごすであろう。
よって、今年の盆休みは実家で気ままに休むことに決めた。
嫁に行った姉上も1日くらい帰ってくるだろうから、久々にゆっくり話でもしてみようかと思う。
島津に次いで、加藤からも御中元の礼の品が届いた。
熊本の老舗の吟醸酒とカラシレンコンであった。
さすが、天下人の側に仕えた元・都会人である。
吟醸酒とは、贈る品にも高貴なお気遣いがある。
夕食後、殿は家臣一同を広間に集め、皆に振る舞った。
加藤はわざわざ、カラシレンコンに合う種類の酒を選んでいたようだ。
殿も皆も、両者の組み合わせを絶賛していた。
俺は舐める程度に飲んでみたが、日頃から飲み慣れていない所以か、そこそこ美味く感じられただけであった。
その場はそのまま酒宴に流れたが、横に居た深水頼蔵には、
「無理をなさらないほうが良いですよ」
と、お優しいお言葉を掛けていただく始末だった。
情けない。
俺は所詮、酒の席では襟巻きの裾をいじって時間を潰すしかないのだろうか。
そう考えていると、「よりあに」と殿が俺を手招きして呼んだ。
殿の席に寄ると、殿は、「ほら、飲みなよ」と言って酒の入った猪口を俺の前に置いた。
遠慮したいところであったが、殿に勧められた酒である。
断ることなどできず、仕方なく猪口を手に取ると、
「それ、薄いお茶だから」
と、殿が小声で言った。
宴会の度に、早々に湯呑みで茶を飲んでいる俺を見かねて、殿が気を遣ってくれたのだろう。
傍目には酒を飲んでいるように見える。
見た目だけでも俺を宴会に参加させようと気遣ってくれた殿は、どこかの誰かと違ってほんとうに優しかった。
今日の殿の心遣いに応えるため、俺はこれからもより殿様の御ために励んでいこうと思った。
熊本の老舗の吟醸酒とカラシレンコンであった。
さすが、天下人の側に仕えた元・都会人である。
吟醸酒とは、贈る品にも高貴なお気遣いがある。
夕食後、殿は家臣一同を広間に集め、皆に振る舞った。
加藤はわざわざ、カラシレンコンに合う種類の酒を選んでいたようだ。
殿も皆も、両者の組み合わせを絶賛していた。
俺は舐める程度に飲んでみたが、日頃から飲み慣れていない所以か、そこそこ美味く感じられただけであった。
その場はそのまま酒宴に流れたが、横に居た深水頼蔵には、
「無理をなさらないほうが良いですよ」
と、お優しいお言葉を掛けていただく始末だった。
情けない。
俺は所詮、酒の席では襟巻きの裾をいじって時間を潰すしかないのだろうか。
そう考えていると、「よりあに」と殿が俺を手招きして呼んだ。
殿の席に寄ると、殿は、「ほら、飲みなよ」と言って酒の入った猪口を俺の前に置いた。
遠慮したいところであったが、殿に勧められた酒である。
断ることなどできず、仕方なく猪口を手に取ると、
「それ、薄いお茶だから」
と、殿が小声で言った。
宴会の度に、早々に湯呑みで茶を飲んでいる俺を見かねて、殿が気を遣ってくれたのだろう。
傍目には酒を飲んでいるように見える。
見た目だけでも俺を宴会に参加させようと気遣ってくれた殿は、どこかの誰かと違ってほんとうに優しかった。
今日の殿の心遣いに応えるため、俺はこれからもより殿様の御ために励んでいこうと思った。