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マイナー武将のメジャー家老・犬童頼兄による日記。
 
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今日は、球磨川のほとりで花火大会があった。
川岸に町人や農民たちが団扇を片手に集まり、花火が打ち上げられる度に歓声を上げていた。
もちろん、殿はこういう行事に目がない。
本丸にある護摩堂(この城には天守閣というものが無い)に上り、そこで花火を楽しんでいた。
酒を飲みながらなのは言うまでもない
「昔も、兄さんと弟と3人でここに来て、花火を見たっけ」
それはかれこれ10年以上前の話である。
俺が「覚えておいでですか」と言うと、殿は頷いた。
「ここで見たいって3人で言ったら、父さんが上るのを特別に許してくれた。花火が目の前で見えて、その迫力が楽しかったのを覚えてるよ」
殿の言葉の合間ゝに、花火の打ち上がる音が響いていた。
でも、もうだれも居ない」。
殿の背中はそう語っているようだった。
殿はまれに、淋しげなことを言ったり、そのような表情をしたりする。
そのときがまさにそうであった。
もしかすると、殿にとって必要なものは、一国の主という身分や権力でも、さらにそれを維持するための補佐役である俺でもなく、家族だったのかもしれない。
身内が利用されて死んだり、互いに自由に会えなくなるようなことが普通に起こり得る武家の世界よりも、この城下の川沿いで花火を眺めている、町人や農民の暮らしのほうが合っていたのかも知れない。
しかし、たとえそうだとしても、殿が現実を捨てたところで、父親や兄が戻るわけでもない。
殿には、殿という職を生涯全うする以外にほかの生き方など無いのである。
「よりあに」
俺は呼ばれてふと我に返った。
なんですか、と訊くと、
お代わり欲しいな
と、空になった冷酒の容器を指差して言った。
色々と、俺の考えすぎなのだろうか
夏の祭りのときくらい飲ませてやろうと、殿様の御ため、俺は容器を持って護摩堂を下りた。
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(劇)池田商会制作様
2008年9月14日、九州戦国史を描く演劇を上演されました
主役は犬童頼兄!



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キリ番訪い者様へのお返事
・1年目2月17日300訪いの方
ご訪問ありがとうございます。
「青森県弘前市に相良姓または犬童姓の人が今もいるのか」という内容のご意見をいただきました。申し訳ないことに管理人も断言できるほどの知識はありませんが、答えられる限りお答えしたいと思います。
根拠に用いるには説得力が疑われますが、Wikipediaによると、子孫は「名字を変えて」津軽藩に仕えたとあります。よって、相良姓・犬童姓は頼兄の代で終わったとも考えられます。しかし、犬童頼兄は津軽で罪人として扱われず、教養人として津軽藩の藩士の育成に貢献していたようですから、わざわざ身の上を憚り名字を変える必要性は無かったのではないでしょうか。さらに、町の名前として弘前市相良町が残っています。このことからも、仮に一旦頼兄の代で相良姓が絶えたとしても、江戸期に家系を遡り相良姓を再び名乗り始めた可能性も考えられます。
憶測ばかりで答えになっておりませんが、管理人は今も相良姓を名乗る人がいるのではないかと思っております。この度はご訪問・ご意見ありがとうございました。
※結論確定いたしました※
人吉城歴史館の学芸員の方にお話をお伺いして参りました。
人吉にも弘前にも、流罪後の頼兄に関する史料は残っていないようです。そのため、弘前に頼兄つながりの相良姓・犬童姓が残ったかどうかを確認することはできかねるということでした。
よりあに書簡
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よりあに書簡(別窓開きます)
相良頼房史実プロフィール
1574年生まれ。
第18代当主・義陽の次男として生まれ、父の戦死後は人質として薩摩に赴き、兄の死後は第20代当主となった。
関ヶ原合戦や大阪の陣を経験する。
犬童頼兄の補佐を受け、数々の場面で助けられるも、彼の勝手な振る舞いが悩みの種だった。
犬童頼兄史実プロフィール
生年不詳。
生家の犬童家は、肥後の奥地を治める相良氏に代々仕える。
相良家の2万2000石に対し、半分近い8000石を有した。
のちに相良頼兄、相良清兵衛頼兄と名乗る。
主家の維持に尽力するも、後年、専横の振舞いが目立ったため主家によって幕府に訴えられ、津軽藩に流される。
それに反発した一族が相良家に乱を起こし、一族全員121人が討死した。
弘前市相良町は頼兄の屋敷地に由来する。
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HN:
犬童頼兄
性別:
非公開
職業:
相良家筆頭家老
趣味:
策略謀略
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