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マイナー武将のメジャー家老・犬童頼兄による日記。
 
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今日も良く晴れ、日干ししていた俺の襟巻きも、正午過ぎには乾いた。
午前中に渡した本をきちんと読んでいるかを確認するため、殿の部屋に行くと、あのガキは殿は障子の際に座って外を眺めていた。
城の前を流れる球磨川を眺めているらしい。
「よりあに、子供が泳いでいるよ」
気配だけで俺と分かったらしく、背を向けたままそう言った。
「暑いですからね」
机の上の本は、数頁めくられただけで放置されていた。
「昔、父さんに聞いたんだけど」
殿は、俺に本のことを突っ込ませる暇も与えない
「島津方と大友方がぶつかった合戦で、耳川って川が赤く染まったって、ほんとうなのかな」
「事実ですよ」
俺は机のそばに腰を下ろして答えた。
ここはきれいなままでいたいね
殿はいつものように、呟くような小さな声で言った。
これには2つの意味があるように思われる。
1つは、『戦なんて無い、穏やかな世の中にしたい』こと。
2つは、『戦をするなら、他領でやりたい』こと。
俺は殿がどちらの意味で言ったのかを考えたが、その答えは、今後の殿の動きを見ていれば分かるだろうと思い、考えるのはやめた。
「よりあに」
水浴びをしたいなら、最低1冊は読み終えてからにしてください
「なんでわかったの」
俺は殿が物心つくか否かの頃から、教育係だか子守り係だか知りませんが、殿にお仕えしてです

それくらい分かります。

そうして、午後の俺の仕事は、殿に相良氏法度第1巻を読了させることになった。
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(劇)池田商会制作様
2008年9月14日、九州戦国史を描く演劇を上演されました
主役は犬童頼兄!



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キリ番訪い者様へのお返事
・1年目2月17日300訪いの方
ご訪問ありがとうございます。
「青森県弘前市に相良姓または犬童姓の人が今もいるのか」という内容のご意見をいただきました。申し訳ないことに管理人も断言できるほどの知識はありませんが、答えられる限りお答えしたいと思います。
根拠に用いるには説得力が疑われますが、Wikipediaによると、子孫は「名字を変えて」津軽藩に仕えたとあります。よって、相良姓・犬童姓は頼兄の代で終わったとも考えられます。しかし、犬童頼兄は津軽で罪人として扱われず、教養人として津軽藩の藩士の育成に貢献していたようですから、わざわざ身の上を憚り名字を変える必要性は無かったのではないでしょうか。さらに、町の名前として弘前市相良町が残っています。このことからも、仮に一旦頼兄の代で相良姓が絶えたとしても、江戸期に家系を遡り相良姓を再び名乗り始めた可能性も考えられます。
憶測ばかりで答えになっておりませんが、管理人は今も相良姓を名乗る人がいるのではないかと思っております。この度はご訪問・ご意見ありがとうございました。
※結論確定いたしました※
人吉城歴史館の学芸員の方にお話をお伺いして参りました。
人吉にも弘前にも、流罪後の頼兄に関する史料は残っていないようです。そのため、弘前に頼兄つながりの相良姓・犬童姓が残ったかどうかを確認することはできかねるということでした。
よりあに書簡
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よりあに書簡(別窓開きます)
相良頼房史実プロフィール
1574年生まれ。
第18代当主・義陽の次男として生まれ、父の戦死後は人質として薩摩に赴き、兄の死後は第20代当主となった。
関ヶ原合戦や大阪の陣を経験する。
犬童頼兄の補佐を受け、数々の場面で助けられるも、彼の勝手な振る舞いが悩みの種だった。
犬童頼兄史実プロフィール
生年不詳。
生家の犬童家は、肥後の奥地を治める相良氏に代々仕える。
相良家の2万2000石に対し、半分近い8000石を有した。
のちに相良頼兄、相良清兵衛頼兄と名乗る。
主家の維持に尽力するも、後年、専横の振舞いが目立ったため主家によって幕府に訴えられ、津軽藩に流される。
それに反発した一族が相良家に乱を起こし、一族全員121人が討死した。
弘前市相良町は頼兄の屋敷地に由来する。
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HN:
犬童頼兄
性別:
非公開
職業:
相良家筆頭家老
趣味:
策略謀略
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