殿の今日の朝食にはつくしの胡麻和えがついていたらしい。
城にこもりがちな日々であると、季節を膳で感じることも多い。
「よりあにのにはついてなかったの?」
「つくしは調理の手間が掛かりますし、まだ皆が食べられるだけ生えていないでしょうから」
そう答えながら、昔、姉上に手を引かれて球磨川近くにつくしを摘みに行ったことを思い出した。
料理するのに適当な量が採れたときは、日の差す縁側で姉上とふたり、つくしの袴を取ったものだった。
それを殿に話すと、殿は「そういうのいいよなあ」と羨ましげな声を上げた。
「いつか弟と、つくしを肴に夜桜でも見てみたいな」
「長誠様が酒を飲めるようになるまで、3,4年ほど待たねばなりませんよ」
「いいさ。遠くにいる1年より、傍にいる4年のほうが短い」
殿は筆を置いて寝転がり、「早く帰してやらないとな」と呟いた。
それはまさに兄の横顔だった。
が、すぐに跳ね起き、
「もし、長誠が薩摩のほうが居心地が良いから帰らない、って言ったらどうしよう」
と、縋るような表情で俺に意見を求めてきた。
俺は殿様の御ため、
「長誠様は球磨のお方です。故郷を蔑ろにし、他国にうつつを抜かすようなことは決してなさいません。それになによりも、兄が待っているからには、必ずこの地にお帰りになるでしょう」
と、長誠様が球磨に帰ってくることを保証した。
殿は「だよね」とすこしは安心した様子だった。
昨夜遅くに殿の部屋の近くを通り掛かると、障子にろうそくの明かりが映っていた。
普段なら殿は寝ている時間だった。
小声で声を掛けて障子を開けると、殿は布団に入り、うつ伏せの姿勢で枕に顎を乗せていた。
「眠れないのですか」
そう訊ねると、殿は「うん」とうつ伏せのまま答えた。
珍しいこともあるものだ、と思いながら、俺は
「白湯でも飲みますか」
と勧めてみた。
「余計に寝られなくなるよ」
白湯を飲めば少しは眠りやすくなるものだが、殿はむしろ眠れないと言い出した。
「厠に行きたいけど面倒でさ。白湯なんか飲んだら余計に行きたくなるじゃないか」
心配した俺がばかだった。
殿様の御ため、俺は殿の布団を引き剥がし、明かりを持たせて部屋から追い出すようにして厠に行かせた。
厠から戻って来ると、殿は布団に入るなり眠った。
茶を貰いにゆくと、丁度仕入れから帰ってきた台所の者が和んだ表情をしていた。
雛人形は普段は子供、特に女の遊び道具であるが、3月3日だけは特別にあつらえた台に飾りつける。
よって、娘のいる家の軒先には必ず並べられている。
姉上が嫁に行くまでは、実家でも毎年門の前に雛人形を並べていた。
ある年、それを見た幼い頃の殿は羨ましがり、俺は下策を承知で小さな木彫りのキジ馬を7つ8つ用意した。
そして「代わりにこれを並べたらどうか」とキジ馬を差し出してみると、殿は思いのほか大いに喜び、ついには雛人形よりキジ馬並べを好むほどになった。
「今年はこの並びにしてみたよ」
朝の挨拶のために殿の部屋に入ると、すでに殿は台の上に11のキジ馬を並べていた。
残念ながら、俺にはどこの並びがどう変わったのかはわからなかった。
「でも、本当は雛人形を飾るんだよね」
そう言って殿は11のキジ馬を眺め、なにか思い付いたような顔をした。
「もし、よりあにに女の子ができたら、僕が雛人形を用意してやるからね」
大胆な約束をさらりと俺に与えると、殿はキジ馬に11のキジ馬を見せ始めた。
俺は殿様の御ため、その厚意に応えるために、生涯で初めて娘を欲しいと思った。
このところ雨や曇りの日が続き、一時春を思わせた暖かさは一変、昼間も寒くなった。
昼食の味噌汁で温まろうとしたものの、味噌汁如きにそのような大役が務まるはずもなく、ついには炬燵にもぐり込んだ。
さほど時間は経っていなかっただろう、「よりあに」と繰り返し呼ばれる声で気が付いた。
いま思えば大変無礼に値するが、俺は炬燵で昼寝の姿勢のまま、
「なにか御用ですか」
と殿に訊ねていた。
それでも殿は気にした素振りも見せず、
「用はないよ。ちょっと見に来ただけ」
と、いつもの陽気な声でそう答えた。
「なにを見に来たのですか」
「よりあに」
俺はそこでようやく目が覚めた。
俺を見に来たとはどういうことなのか。
急いで起き上がり、襟巻きを直した。
「昨日、僕が頼蔵をひいきするようなことを言ったから、よりあにがふて寝していないかと思ってさ」
「まさか。そのようなことは致しません」
「でも、昨日僕の部屋を出るとき不満気だったから」
さすが相良の血の者である。
俺は表情豊かではないが、そのなかの微妙な変化さえ見取られていた。
「殿はそのようなことは気にしなくてもよいのです。殿が頼蔵にこれまで通り奉公させると決めたのならば、私は頼蔵の働きを阻む者が現れぬように励むのみなのです」
殿は一度頷き、「ありがとう」と微笑を浮かべた。
ほんとうに必要があるときは、殿の考えなどねじ伏せて諫言する。
が、まだ選択肢のある状況下にあるいまは諫言を控え、殿様の御ため、殿の考えが台無しにならぬよう支えてゆくことを選ぶ。
もしかすると、と思い、俺は頼蔵が廊下の角を曲がるのを待って殿の部屋に入った。
「殿、頼蔵に監物のことを訊ねたのですか」
殿の前に座るや否や、俺は予想していたことを殿にぶつけた。
殿は「はっきりさせておきたかったからね」と頷いた。
詳しく聞くと、どうも監物は過激な行動に走りがちであるので、俺の父の隠居を機に、頼蔵が監物をくに外れで大人しくしておくよう命じたらしい。
ここ数年ほど見掛けなかったのはそのためで、昨日俺が見たのは、久々に城下町に行っても良いという許可を自分が出したからだ、と頼蔵は説明したようだった。
よって、深水側が不穏な動きをしているという見解はあり得ず、殿には安心してもらいたいということだったそうだ。
「殿はそれを信じるのですか」
俺には頼蔵の説明は言い訳にしか聞こえなかった。
監物が姿を現したことにここまで危機感を覚えるのは俺の私情、はたまた私怨だと指摘されれば否定しきれぬ部分もあるだろう。
しかし、この大事な時期に不穏な空気を留めておくのは殿様の御ために良くないのである。
「信じてみる」
俺の思いとは逆に、殿はすこしも迷わずに断言した。
「よりあにの言いたいこともわかるけど、いまは頼蔵が要るんだ」
頼蔵は、外交の手腕に長けた深水長智の甥である。
その才は確かに頼蔵にも受け継がれているので、殿は今後のために頼蔵を手元に置いておきたいのであろう。
それもまたお家のためなのだ、と俺は自分に言い聞かせ、殿の前を失礼した。
妙な影が見え隠れしているにも関わらず、変わりなく殿の信頼を得た頼蔵を羨ましくも思う。