今日は久々の休日だった。
朝から天気はあまり良くなかったが、昨日実家から持ち出した茶の本を返すため、昼過ぎに城を出た。
屋敷に着くと、まず昨夜の無礼の詫びと挨拶をするため、父の姿を探した。
しかし、屋敷の中を一通り歩いても、父は見当たらなかった。
外出中なのかと思い、とりあえず先に本を返そうと俺は学堂に向かった。
すると、学堂の中に父は居た。
俺が荒らしていった跡を片付けているところであった。
「頼兄、今度はどうした」
抱えた本を1冊ずつ棚に収めながら、父は茶化すようにそう言った。
「本を返しに参りました」
俺は父の腕から本の山を取り上げ、父と同じように1冊ずつ棚に収め始めた。
荒らしておいて丁寧もなにもないが、丁寧に蔵書を片付けながら、昨日のあらましについて語った。
その間、父は腕組みをして聞いていたが、俺の話が終わると、さも愉快そうに笑った。
「そうか、そうか。それは一大事であったな」
一大事という言葉の割に、楽しげであった。
「ここは笑うところなのでしょうか」
思わず俺はこう言った。
「笑うところさ。茶の素養がなくとも慌てず、思い付いたようにお前に茶の作法を尋ねる殿は、次期天下人と目される秀吉公にまったく媚びておらぬようだ。むしろ、都合の良い部分のみ利用して、あくまで己は権力の色に染まるつもりはないと思われる」
父は殿の無知うっかりをこのように解釈し、絶賛したが、俺にはただの教養足らずにしか思えなかった。
「当代の殿様は、先々代や先代とはまた異なる性質だな。これからの相良のお家の行く先が楽しみだ」
その『異なる性質』とやらが続くと、殿の補佐をする俺の身が保ちません。
「とにかく」
父はふと真顔に戻った。
「殿様の御ために、お前が身を尽くして働いているところを垣間見られて、昨日は嬉しかったぞ」
そう言って、父は屋敷のほうへ足を向けた。
「片付け終わったら、居間に来い。茶の一杯くらい飲んで行け」
棚に本を収めかけた姿勢のまま、俺は父の後ろ姿を見つめていた。
朝から天気はあまり良くなかったが、昨日実家から持ち出した茶の本を返すため、昼過ぎに城を出た。
屋敷に着くと、まず昨夜の無礼の詫びと挨拶をするため、父の姿を探した。
しかし、屋敷の中を一通り歩いても、父は見当たらなかった。
外出中なのかと思い、とりあえず先に本を返そうと俺は学堂に向かった。
すると、学堂の中に父は居た。
俺が荒らしていった跡を片付けているところであった。
「頼兄、今度はどうした」
抱えた本を1冊ずつ棚に収めながら、父は茶化すようにそう言った。
「本を返しに参りました」
俺は父の腕から本の山を取り上げ、父と同じように1冊ずつ棚に収め始めた。
荒らしておいて丁寧もなにもないが、丁寧に蔵書を片付けながら、昨日のあらましについて語った。
その間、父は腕組みをして聞いていたが、俺の話が終わると、さも愉快そうに笑った。
「そうか、そうか。それは一大事であったな」
一大事という言葉の割に、楽しげであった。
「ここは笑うところなのでしょうか」
思わず俺はこう言った。
「笑うところさ。茶の素養がなくとも慌てず、思い付いたようにお前に茶の作法を尋ねる殿は、次期天下人と目される秀吉公にまったく媚びておらぬようだ。むしろ、都合の良い部分のみ利用して、あくまで己は権力の色に染まるつもりはないと思われる」
父は殿の
「当代の殿様は、先々代や先代とはまた異なる性質だな。これからの相良のお家の行く先が楽しみだ」
その『異なる性質』とやらが続くと、殿の補佐をする俺の身が保ちません。
「とにかく」
父はふと真顔に戻った。
「殿様の御ために、お前が身を尽くして働いているところを垣間見られて、昨日は嬉しかったぞ」
そう言って、父は屋敷のほうへ足を向けた。
「片付け終わったら、居間に来い。茶の一杯くらい飲んで行け」
棚に本を収めかけた姿勢のまま、俺は父の後ろ姿を見つめていた。
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事の発端はこの一言であった。
「よりあに、お茶ってどうやって点てるんだっけ?」
筆を走らせていた俺は、思わず撥ねの部分を必要以上に撥ねてしまった。
茶道は決して、風流な文化人だけのものではなく、大名以下武士全員がたしなみとするものである。
これを知らないとなると、常識知らずとして笑い者になる。
「殿。確かそれは、殿が元服されるときにお教えしましたよ」
俺は震えそうになる声を抑え、平静を装って言った。
「でも、あれから一度もお茶なんて点ててないから、忘れたよ」
そう言えばそうであった。
宴会や会食の席に呼ばれることはあっても、茶の席に呼ばれることは一度もなかった。
この殿においては、食い気の心が風流の心に勝っている。
茶道をまったく知らないようでは、あの千利休を可愛がっている秀吉公からお呼びが掛かったとき、大恥では済まない事態を招くかもしれない。
そう思った俺は、やりかけの仕事を放り出し、殿を茶室に抱えて行った。
まさか、こんな常識的なところから殿様の御ためが生じるとは夢にも思わなかった。
その後、俺は夕食の時刻まで殿に茶の作法を叩き込んだ。
だが、それでも不安が拭えなかったので、急遽実家に帰り、学堂の書斎を半ば荒らしながら茶の本を探した。
父は夕食中であったが、突然血相を変えて帰ってきた息子を、憑き物でも憑いたのではないかという目で、学堂の入口から箸を持ったまま眺めていた。
「お前、大丈夫か」
父がついにそう言うと、俺は、
「殿が大丈夫ではないのです」
と、ある種の失言を以て返事していた。
それから俺は、やっと探し出した本を持って城に戻り、殿様の御ため、昔のように、本を最初から最後まで読み聞かせた。
日記を書こうとして日記帳を開くと、隅に書いてある数字が百になっていた。
この数字は、俺が日記帳を買ったときから日々少しずつ増え続け、ある日は変化なく、ある日は4,5くらい増しているときもあった。
だが、俺にはこの数字の意味が分からなかった。
それでも特に問題もないので、さほど気に留めずに今日まで日記を書いてきた。
しかし、今日俺の元に一通の矢文が届いた。
差出人は書かれていない。
不審に思いつつも開くと、
『本日めでたく概算百人の方があなたの日記を見に来てくれました』
と書いてあった。
なるほど、この数字にはそのような意味があったようである。
さらに文を読み進めると、どうやら、俺が日記帳に書いたことはなんらかの方法で公開されており、深水頼蔵や殿にはその方法でこの日記を読むことはできないようだ。
よって、百という数字の中に彼らが含まれていることは確実にありえないということになる。
さらにこの日記帳自体も、誰かに盗み見られている形跡もない。
あの2人に見られていないことが分かり、俺は安堵した。
そして、殿様の御ためについてしか書かれていない日記を、あえて見に来てくれた百人に感謝したいと思う。
上井覚兼日記になど負けず、これからも、相良のお家の行く先、九州戦国期の行く末を書き残していく。
この数字は、俺が日記帳を買ったときから日々少しずつ増え続け、ある日は変化なく、ある日は4,5くらい増しているときもあった。
だが、俺にはこの数字の意味が分からなかった。
それでも特に問題もないので、さほど気に留めずに今日まで日記を書いてきた。
しかし、今日俺の元に一通の矢文が届いた。
差出人は書かれていない。
不審に思いつつも開くと、
『本日めでたく概算百人の方があなたの日記を見に来てくれました』
と書いてあった。
なるほど、この数字にはそのような意味があったようである。
さらに文を読み進めると、どうやら、俺が日記帳に書いたことはなんらかの方法で公開されており、深水頼蔵や殿にはその方法でこの日記を読むことはできないようだ。
よって、百という数字の中に彼らが含まれていることは確実にありえないということになる。
さらにこの日記帳自体も、誰かに盗み見られている形跡もない。
あの2人に見られていないことが分かり、俺は安堵した。
そして、殿様の御ためについてしか書かれていない日記を、あえて見に来てくれた百人に感謝したいと思う。
上井覚兼日記になど負けず、これからも、相良のお家の行く先、九州戦国期の行く末を書き残していく。
朝から小雨が降っていた。
用事のために殿の部屋に入ると、殿は球磨川をじっと見下ろしていた。
俺は、その後ろ姿で殿がなにを考えているのかわかった。
「殿、堤防工事のことですか」
そう言うと、殿は振り向いて「うん」と頷いた。
「雨が降っているのを見て、思い出したよ。できるだけ早く工事に取り掛かりたい」
「それでしたら」
俺は殿の前を失礼して自室に行き、3枚の紙を持って殿の部屋に戻った。
「工法については、これらに記しておきました」
そう言い添えて紙を差し出すと、殿は紙と俺を交互に見た。
様子からして、驚いているようであった。
「僕、よりあににこれを書いておけって言ったっけ?」
「ご指示はありませんでしたが」
清正殿のお話を忘れぬようにと思い、書き留めておきました、と俺は答えた。
殿は紙をめくりながら、
「さすがだ」
と満足そうな顔をしていた。
殿様の御ためなれば、このくらいは当然のことである。
指示がなくとも、常に気を利かせて行動しなければ、殿の補佐役は務まらない。
それに加えて、球磨川を整備し、このくにをより豊かにしたいと考える殿の意志を支え、実現に近づけることが俺の仕事である。
用事のために殿の部屋に入ると、殿は球磨川をじっと見下ろしていた。
俺は、その後ろ姿で殿がなにを考えているのかわかった。
「殿、堤防工事のことですか」
そう言うと、殿は振り向いて「うん」と頷いた。
「雨が降っているのを見て、思い出したよ。できるだけ早く工事に取り掛かりたい」
「それでしたら」
俺は殿の前を失礼して自室に行き、3枚の紙を持って殿の部屋に戻った。
「工法については、これらに記しておきました」
そう言い添えて紙を差し出すと、殿は紙と俺を交互に見た。
様子からして、驚いているようであった。
「僕、よりあににこれを書いておけって言ったっけ?」
「ご指示はありませんでしたが」
清正殿のお話を忘れぬようにと思い、書き留めておきました、と俺は答えた。
殿は紙をめくりながら、
「さすがだ」
と満足そうな顔をしていた。
殿様の御ためなれば、このくらいは当然のことである。
指示がなくとも、常に気を利かせて行動しなければ、殿の補佐役は務まらない。
それに加えて、球磨川を整備し、このくにをより豊かにしたいと考える殿の意志を支え、実現に近づけることが俺の仕事である。
ちょうど日が暮れる頃に、人吉城に到着した。
最近は日没が早くなってきたが、夜道を歩かずに済んだことは幸いであった。
殿は一息つくこともせず、部屋に上がるとすぐに留守居を務めていた深水頼蔵から詳細な報告を受けた。
そのとき、部屋の隅の障子が僅かに開かれていた。
頼蔵の話が終わると、殿は、
「そうか。最後までなにも起こらなくて良かった」
と、安堵した表情を浮かべた。
「では、いいですよ」
殿が納得した様子を見届けると、頼蔵は部屋の隅の障子に向かってそう言った。
殿も俺も、いったい何事かと頼蔵が声を掛けた方向を見た。
障子の隙間から出てきたのは殿のキジ馬であった。
キジ馬は、殿を見つけるや否や殿に飛びついた。
「よく待っててくれたね、ありがとう」
なりふり構わずに甘えるキジ馬の頭を撫で、殿も久々の再会を喜んでいた。
その後、殿は旅の埃を落とすために風呂に入ったが、いつもは入浴を嫌がるキジ馬も、喜々として殿の後を付いていっていた。
この旅の間、殿は怪我をすることもなく、病気に罹ることもなかった。
それに加えて、政治的にも熊本訪問は成功した。
この度における俺の殿様の御ためも成功したと言えるであろう。
しかし、殿。
畳の上で、肥後こまを回してキジ馬と遊ぶのはやめてください。
畳にめり込んでいます。
最近は日没が早くなってきたが、夜道を歩かずに済んだことは幸いであった。
殿は一息つくこともせず、部屋に上がるとすぐに留守居を務めていた深水頼蔵から詳細な報告を受けた。
そのとき、部屋の隅の障子が僅かに開かれていた。
頼蔵の話が終わると、殿は、
「そうか。最後までなにも起こらなくて良かった」
と、安堵した表情を浮かべた。
「では、いいですよ」
殿が納得した様子を見届けると、頼蔵は部屋の隅の障子に向かってそう言った。
殿も俺も、いったい何事かと頼蔵が声を掛けた方向を見た。
障子の隙間から出てきたのは殿のキジ馬であった。
キジ馬は、殿を見つけるや否や殿に飛びついた。
「よく待っててくれたね、ありがとう」
なりふり構わずに甘えるキジ馬の頭を撫で、殿も久々の再会を喜んでいた。
その後、殿は旅の埃を落とすために風呂に入ったが、いつもは入浴を嫌がるキジ馬も、喜々として殿の後を付いていっていた。
この旅の間、殿は怪我をすることもなく、病気に罹ることもなかった。
それに加えて、政治的にも熊本訪問は成功した。
この度における俺の殿様の御ためも成功したと言えるであろう。
しかし、殿。
畳の上で、肥後こまを回してキジ馬と遊ぶのはやめてください。
畳にめり込んでいます。