映っている影から、そこにいるのは侍女2人だとわかった。
俺に用があるような気配だったが、一向に障子を開けてこない。
「なにか用事か」
しびれを切らせて障子を開けると、困り怯えたような表情をした侍女2人がいた。
「用があるならさっさと言え」
と言ってみても、2人は「えっと」や「あの」と繰り返して互いの様子をうかがい合うばかりで、まったく要領を得ない。
もう一度促そうとすると、
「きききき今日、こ、これを御家中の皆様にお配りしてお、ります。お、お受け取りいただけますでしょうか」
と所々引っ掛かりながら、片方の侍女が小さな箱を差し出した。
「これはなんだ」
腕組みをしたまま、俺は不可解なその箱を目で指した。
「お菓子でございます」
恐る恐ると言った上目遣いでもう1人の侍女が答えた。
「女中部屋の皆で作りました。よろしければお召し上がりください」
ここまで言わせて受け取らなければ、俺は決定的に侍女の連中に悪印象を叩き付けることになる。
俺は「そうか」と頷き、小箱を受け取った。
すると、2人は「有難うございます」「失礼致します」と口々に言い、足早に俺の部屋の前をあとにした。
余程この訪問が重荷だったようであった。
障子を閉めて机の前に戻り、丁度小腹の空く時間帯だったので、俺は早速箱を開けてみた。
中には、質素だが品のある小振りの饅頭が3つ入っていた。
その内の1つを取り出しかじってみると、白あんが詰まっていた。
渋い茶が欲しくなるような甘さだったが、美味かった。
「理由はわからないけど、わざわざ作ってくれたんだから嬉しいじゃないか」
夕方、書類を提出するために殿の部屋に行くと、殿は例の小箱の話をし始めた。
「皆のぶんを作るとなると、朝早くからか、もしかすると徹夜で取り掛かっていたのかもね」
殿は俺の書類に花押を描き、「完了」と言った。
俺が訳もわからず受け取った旨を報告すると、殿は、
「よりあにのことだから、怖い顔して受け取って、そのまま帰しちゃったんだろ」
まさにその通りだった。
「では、今度会った折にでも礼を言っておきます」
女相手に気を遣うのは御免だったが、殿様の御ため、礼は礼として果たすべきだと思った。
夕食後に殿の前を下がってすこし残りの仕事に取り掛かったあと、風呂に行こうと席を立った。
近頃は日が落ちるのが遅くなってきたが、その頃には星がよく見える空になっていた。
おかしなことは湯殿に入ってから起きた。
湯気の中に柑橘類の香りが漂っていたのだ。
外で火の番をしている者に尋ねると、「湯のふたを開けてみてください」という返事が返ってきた。
俺は言われた通りふたを開け、言葉に詰まった。
みかんが浮いていたのだ。
「深水様のご提案で、みかんを湯につけてその香りと味をゆるりと楽しむそうです」
「食うのか」
香りのために入れただけで、さすがに食うとは予想だにしていなかった俺は、思わず訊き返した。
「はい。風呂でのみかんも美味いと、皆様からご好評をいただいております」
俺は「そうか」としか言えず、おとなしくみかんの浮いた湯船に浸かった。
風呂のような疲れを取る場所で柑橘類の香りを楽しませるのは、これが洒落ているかどうかは知らないが、いかにも洒落たことの好きな頼蔵らしい。
しかも、入れたみかんを食べるとはいかにも殿好みである。
なかなかやってくれる、と思いながら、俺もひとつみかんを手に取って皮をむいた。
一概に殿様の御ためと言えど、人の性質が十人十色であるのと同じく、その表し方が千差万別であることは常々実感している。
それゆえに、俺の殿様の御ためがほんのいち側面だということもわかっている。
しかし、俺は自分1人で完璧に殿に仕えられるようになることを目指してきた。
これからもそれを変えるつもりはなく、これを機会に、皆で足りない点を補い合うことで殿に十分な働きをする、と方針を転換することはない。
皆の殿様の御ためを見てそれを学び覚え、自分のものにしていくことで俺の理想を叶えたいのである。
朝、殿の部屋に挨拶にゆくと、障子に大穴が開いていた。
理由を殿に尋ねると、
「キジ馬が突っ込んだんだ」
と殿は申し訳なさそうに答えた。
春が近くなると、キジ馬という生き物は動きが活発になると言う。
俺に叱られると思ったのか、キジ馬は部屋の隅で縮こまっていた。
「そういう性質なのですから、仕方ありませんね。張り替えましょう」
殿様の御ため、俺は廊下を歩いていた者を呼び止め、新しい障子紙と糊を持って来るよう言いつけた。
それを見て、夢中で骨を舐めていた猫は骨をくわえて逃げ去った。
俺は屈んだまま廊下の上の頼蔵を見上げた。
「なんだか、『お前のせいで猫が逃げた』と言いたげですね」
俺は立ち上がり、
「そんな子供のようなことは思わん」
と猫が走っていった方向を見た。
「殿がキジ馬好きなら、その側近は猫好きですか」
「お前も似たようなものだろう。女好きだ」
頼蔵は「失礼な」と言い、「あなたが女子に興味を持たなさ過ぎるのですよ」と逆に俺を非難した。
「女など邪魔だ」
「そんなことを言わずにそれなりにしていれば、人柄はともかくも家柄は文句のつけようがないのですから、むしろ相手が望んで嫁に来てくれるはずですのに」
「さりげなくそしるな」
「先にあなたが火を点けたのですから、その言い分は通りません」
「針に穴を通すよりは通りやすい話だろう」
「針に穴を通す?訳の分からないことを言わないでください、それを言うなら糸に針を通す、でしょう」
「お前のほうが意味が分からん、糸より細い針があってたまるか」
「ありますよ、あなた知らないんですか?教養が足りないようですね」
「眼鏡がなければ論語も読めない奴がそれを言うか」
「襟巻きがなければ生きていけないような方が、眼鏡を卑下しますか」
そうやって言い合いをしていると、岡本頼氏殿が現れた。
「あなた方はまた喧嘩をしているのですか」
頼氏殿は呆れ気味にそう言い、「とにかくもうやめなさい」と俺と頼蔵を黙らせた。
「それで、なにが原因なのですか」
頼氏殿の問いに対し、俺は「襟巻きをこけにした」と答え、頼蔵は「眼鏡を蔑んだ」と答えた。
襟巻きと眼鏡の議論に白熱しすぎ、両者とも言い争いのきっかけをきれいに忘れていた。
頼氏殿は目を点にし、肩をすくめた。
「確かに、襟巻きと眼鏡はそれぞれの存在証明とも言えるものですけれども、それで喧嘩など子供ですか」
俺と頼蔵は頼氏殿の部屋に連れて行かれ、説教をいただいた。
俺は説教の最中にほんとうの理由を思い出し、横目で頼蔵を見ると頼蔵もこちらを横目で見ていた。
思わず揃って舌打ちをすると、説教はさらに長引いた。
俺は殿様の御ため、眼鏡より襟巻きのほうが優位であることを証明しなければ、頼蔵より俺を近くに置いてくれている殿に申し訳ないと思うのだ。
いつもの通り、殿は市や町家、農家の畑を見て回ったが、そろそろ視察も終わりという頃、小さな武家の家が立ち並ぶ地区の近くまで来ていた。
低い垣のなかには質素な屋敷があり、庭の隅には洗濯物が干され、その物干しの周りを鶏が走っている。
「懐かしいなあ」
殿は思わず垣に近寄り、中の様子を覗き込んだ。
殿が懐かしいと言うのは、子供の頃、よく下級武士の家の子と遊んでいたからである。
国主の子を卑しい下級武士の子と遊ばせるなど、と御家中の名だたる名臣たちからは反対されたが、特定の身分の子としか接せられなければ、殿にほんとうのこの身分社会というものをわからせられない。
そう考えていたので、俺は構わず殿を下級武士の住まう地区に連れて行き、身分は明かさずに好きなように遊ばせていた。
「確かここは三郎の家だったよね」
偶然だったが、その家は殿と特に仲の良かった三郎という子の家だった。
「よりあにはいつも三郎に襟巻きを引っ張られて、恰好の玩具になっていたっけ」
「私は彼を目で殺そうと幾度も思いましたが、殿様の御ため、我慢したのです」
「僕のときは遠慮なく殺したじゃないか」
「それはそれで殿様の御ためなのです」
俺がそう答えると、
「なんだか言いくるめられているみたいだ」
と殿は口を尖らせた。
言いくるめているのではなく、殿様の御ためには様々な角度があるのです。