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マイナー武将のメジャー家老・犬童頼兄による日記。
 
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ようやく、深水頼蔵が今月上旬に貸した本を返しに来た。
これはと思う部分を逐一写していたので、返却に時間が掛かったらしい。
「目新しいことばかりで、とても勉強になりました」
そう言うと、頼蔵は求めてもいないのに格別に気に入った箇所について語り始めた。
俺は人物としての頼蔵は嫌いであるが、仕事に対する興味やその姿勢は、最も好ましい区分に分類される。
「また良い本がありましたら、是非ともお願いしますね」
終始嬉しげに話を進めたのち、頼蔵は俺に次回を期待して部屋を後にした。
奴のことであるから、いつの日か開かれるであろう軍議の際に、この度得た知識を活かすことだろう。
直接的であることが一番だが、適材適所に基づき、間接的に殿様の御ためを果たすことができたと思う。
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年度末の決算期ということで、会計係である深水頼蔵は多忙を極めているようである。
会計の者総出で仕事に当たっているとのことだが、どうも人手が足りないらしく、この1週間ほど会計にかり出されていた。
連日朝から晩までそろばんを弾き続けたのは、新入りの頃以来であった。
午後、とりあえずひと段落がついたので、頼蔵が礼にと旨い茶を飲ませる店に俺を誘った。
「とても助かりました。これで決算書の提出日に間に合いそうです」
頼蔵は心底安心したような表情をしていた。
「それならいい」
俺はそう答え、運ばれてきた茶をすすった。
舌の肥えた頼蔵が美味いと言うだけに、確かに味の良い茶であった。
「いつか殿を連れて来たいところだな」
「桜の花見のついでにお連れしたらどうですか」
ここには甘いぜんざいもありますから、と言い、頼蔵も美味そうに茶をすすった。
城下町には様々な店が並んでいるが、俺は店の良し悪しの評判に疎い。
食い物に目がない殿様の御ため、頼蔵のように良い店を熟知していることも大事なことだと思った。
「他にも良いところがあれば、また教えてくれ」
素直にそう頼むと、頼蔵は「お安い御用です」と快く頷いた。
昨日の夕方に、先週注文した絵の具が届き、今日からさっそく殿は溜めていた絵に彩色し始めた。
俺は仕事をしながらその様子を横目で眺めていたが、素人目にも上手いと思った。
もし殿が武家の生まれでなかったら、絵師としての人生を送っていたかも知れない。
「そのような殿のお近くにいらした割に、あなたには絵心というものがなさそうですね」
頼蔵は満面の笑顔でそう言い、廊下を歩いていった。
殿様の御ためには絵心は不必要である。
殿が使用している文房具類の消耗品が残り僅かとなってきたので、残数を確認し、発注書を書いた。
明日御用聞きの者が来るので、早ければ週明けには注文の品が届くであろう。
それにしても、今回は紙の減りがやたら速かった。
殿が書いた書類や手紙の数には、大きな変化はなかったはずである。
おかしなこともあるものだ、とふと部屋の隅に目をやると、隠すように紙の束が置かれていた。
書き損じをまとめているのかと思い、俺は殿に訊ねるより前に、その紙の束を手にとって中身を見てみた。
すると、殿が俺のほうを見て「あ」と大きな声を上げた。
紙の束の正体は、殿が描いたキジ馬等の落書きであった。
「殿、このようなことに紙を無駄遣いされては困ります」
俺が呆れて注意すると、
「城に篭もってばかりだと、それくらいしか遊びがないんだ。それに、絵を描くのを教えてくれたのはよりあにじゃないか」
と、殿は若干拗ね気味にそう答えた。
確かに、俺が仕事をしている間はひとりでも退屈せぬよう、物心が付いたばかりの頃の殿に筆を持たせ、紙を与えたのは俺であった。
「そう言いましても、この量は考えものです」
「わかったよ、じゃあやめるよ」
殿は本格的に拗ね、そっぽを向いてしまった。
「17にもなって拗ねるとは何事ですか」
俺はそう嗜めながら殿の近くに寄り、予想外の涙目に驚いた。
「そこまで戯画がお好きなのですか」
殿は無言のまま頷いた。
それほどまでに好きなものに厳しく制限を掛ければ、殿の精神衛生上好ましくない。
かと言って、束になるほどの紙を仕事以外に使われると経費がかさむ一方である。
俺は少々考えた結果、殿様の御ため
「では、殿。絵の具というものをご存知でしょうか。墨で描いた絵に、赤や青などの色をつけるものです。それを使って1枚1枚を丁寧に仕上げる代わりに、紙の量を減らしていただけませんか」
「キジ馬を本物みたいに赤くすることができるの?」
殿は興味ありと言う風な目で俺を見、俺が「できます」と答えると嬉しそうな顔をした。
かくして、俺は発注書に絵の具を追記し、元通り折り畳んだ。
我ながら、殿には甘い己である。
しかし、殿の生活に我慢を押し付けるばかりではなく、できる限り殿の希望も叶えることにより、広義での殿様の御ためが成り立つと考えるのである。
今日の朝食には珍しく玄米の飯ではなく、温かい素麺、いわゆるにゅうめんというものが出た。
朝から日が差していたものの、まだ寒いさなかには有り難い献立だった。
「久し振りに食べたら、珍しくて美味しかったね」
と、殿は朝からご満悦であった。
よくよく話を聞いてみると、麺が主食であったにも関わらず、殿の膳には飯も付いていたらしい。
確かに、麺だけでは殿の胃袋は満足しないだろう。
さすが長く殿の食事を作り続けているだけに、台所の者は殿の食欲事情を熟知していた。
彼らが殿様の御ため、如何にすれば殿に満足してもらえるかを考えた証を知ることができ、今日は気持ちのいい朝であった。
 
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(劇)池田商会制作様
2008年9月14日、九州戦国史を描く演劇を上演されました
主役は犬童頼兄!



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キリ番訪い者様へのお返事
・1年目2月17日300訪いの方
ご訪問ありがとうございます。
「青森県弘前市に相良姓または犬童姓の人が今もいるのか」という内容のご意見をいただきました。申し訳ないことに管理人も断言できるほどの知識はありませんが、答えられる限りお答えしたいと思います。
根拠に用いるには説得力が疑われますが、Wikipediaによると、子孫は「名字を変えて」津軽藩に仕えたとあります。よって、相良姓・犬童姓は頼兄の代で終わったとも考えられます。しかし、犬童頼兄は津軽で罪人として扱われず、教養人として津軽藩の藩士の育成に貢献していたようですから、わざわざ身の上を憚り名字を変える必要性は無かったのではないでしょうか。さらに、町の名前として弘前市相良町が残っています。このことからも、仮に一旦頼兄の代で相良姓が絶えたとしても、江戸期に家系を遡り相良姓を再び名乗り始めた可能性も考えられます。
憶測ばかりで答えになっておりませんが、管理人は今も相良姓を名乗る人がいるのではないかと思っております。この度はご訪問・ご意見ありがとうございました。
※結論確定いたしました※
人吉城歴史館の学芸員の方にお話をお伺いして参りました。
人吉にも弘前にも、流罪後の頼兄に関する史料は残っていないようです。そのため、弘前に頼兄つながりの相良姓・犬童姓が残ったかどうかを確認することはできかねるということでした。
よりあに書簡
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お気軽にどうぞ。
よりあに書簡(別窓開きます)
相良頼房史実プロフィール
1574年生まれ。
第18代当主・義陽の次男として生まれ、父の戦死後は人質として薩摩に赴き、兄の死後は第20代当主となった。
関ヶ原合戦や大阪の陣を経験する。
犬童頼兄の補佐を受け、数々の場面で助けられるも、彼の勝手な振る舞いが悩みの種だった。
犬童頼兄史実プロフィール
生年不詳。
生家の犬童家は、肥後の奥地を治める相良氏に代々仕える。
相良家の2万2000石に対し、半分近い8000石を有した。
のちに相良頼兄、相良清兵衛頼兄と名乗る。
主家の維持に尽力するも、後年、専横の振舞いが目立ったため主家によって幕府に訴えられ、津軽藩に流される。
それに反発した一族が相良家に乱を起こし、一族全員121人が討死した。
弘前市相良町は頼兄の屋敷地に由来する。
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相良家筆頭家老
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