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マイナー武将のメジャー家老・犬童頼兄による日記。
 
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午後の小休憩のとき、殿は饅頭を食べながら家臣の名簿を見ていた。
「ねぇ、よりあにの名字ってさ」
「なんですか」
殿は新しい紙を取り出し、筆を取ってなにかを書き始めた。
俺は茶を飲みながらその様子を眺め、「ほら」と殿がその紙を差し出したので、湯呑みを置いてそれを受け取った。
俺は絶句した
それには、『犬童→犬の童→犬の子供→子犬ちゃん』と書いてあった。
「こうなるよね」
唖然として固まる俺に、殿は無邪気に言った。
こうなるもなにもあるか
茶を飲みながらこれを見ていたら、俺は確実に噴いていた。
危うく、一世一代の大恥をさらすところであった。
「殿、ひとの名前をなんだと思っているのですか」
殿様の御ため、俺は殿に蹴りを入れて差し上げた。
が、かわされた
まだ話は続く。
夕方、廊下で深水頼蔵に出くわした。
「や、頼兄殿。お疲れ様です」
俺は「あぁ」と短く返したが、擦れ違いざまに、
子犬ちゃんですか…
と頼蔵が呟いた。
振り返ると、嘲笑に限りなく近い微笑を浮かべた頼蔵がいた。
あのガキ、喋ったな。
俺はそう思い、殿の部屋へ行き、殿様の御ために障子を開けるなり蹴りを入れて差し上げた。
しかし、またもや以下略(悲)。
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午前中に、殿と槍の訓練をした。
最近は刀ばかりであったので、槍を扱うのは久々だった。
もっとも、実際の戦場で用いる武器で主流なものは槍である。
殿と手合わせしていると、俺はふと違和感を感じた。
なにかが違う。
殿に槍の手さばきを教えてきたのは自分であるが、殿の手付きから、教えたものとは異なる感覚が伝わってきた。
俺は一旦中止し、殿にその違和感を述べた。
すると殿は、
「昔、義弘さんにも教えてもらったからかなぁ」
と言った。
島津義弘と言えば、中央にまで名の聞こえるほどの槍の名手である。
殿によると、義弘は、政治に関することはすべて兄で当主の義久に任せ、夏場は茄子を作るなどして気ままに暮らし、戦が起こればそれに出る日々だという。
薩摩の足軽のようだ
何年前になるか、まだ相良家が島津の幕下に入る前、伊東氏と謀り島津義弘を討とうとしたことがある。
木崎原の戦いと呼ばれ、義陽公指揮の下、俺も父と共に従軍した。
時機到来とあらば、出て行って義弘を挟み撃ちにする作戦であったが、伊東勢の10分の1の数の島津軍に味方が崩されていくのを目の当たりにして、相良勢は結局引き返した。
そのとき、遠目ではあったが、俺は義弘の姿を見た。
馬上で自ら槍を振るい、釣り野伏せという薩摩特有の戦法で敵を陥れる様は、敵ながら見とれるほどであった。
殿は、その義弘から直接槍を教わったと言う。
「よりあにに教えてもらった通りの使い方に戻すよ」
と、もう一度いちから教えてくれと意気込む殿に、俺は、
「いいえ、そのままで結構です」
と言った。
「いまのほうが、動きに切れがあってよろしいでしょう」
殿は、俺のいい加減な理屈に訝しげな顔をした。
殿様の御ため、俺は小さな声で、
義弘の槍で島津を制するのも、また一興でしょう
と本音を呟いた。
これを聞いた殿は、「よりあにはやらしいね」と笑っていた。
が、
そういうところが好きだけどね
殿は真顔に戻るとそう言った。
俺は思う。
殿のほうが、俺の何十倍も嫌らしい、と。
昨夜、俺と深水頼蔵は殿の部屋に呼ばれた。
今週末から加藤清正の居城熊本城に行くに当たって、その間の島津対策についての会議であった。
俺は殿について熊本に行くが、頼蔵は留守居を務める。
要するに、両者口裏合わせのための会議だ。
それが丑三つ時過ぎまで長引いた。
殿はいつもは日付が変わる前に寝てしまうので、9日になる頃にはかなり眠たげな様子だった。
それでも、台所の連中が気を遣ってもってきた夜食をきれいに平らげていた。
口裏合わせも済み、解散となると、殿は「ご苦労様、おやすみ」と言って布団に入り、すぐに眠ってしまった。
気配を感じて目を覚ましたキジ馬は、殿の側へ寄り添って再び眠っていた。
それぞれの部屋に戻るため、なぜそうなるのか頼蔵と廊下を歩いていると、頼蔵が、
「頼兄殿、ご存知ですか」
と言った。
「昨夜は三日月だったのですよ」
頼蔵は立ち止まり、月などとうに沈んでしまった夜空を見上げた。
この城は、別名「繊月城」と呼ばれている。
その名称と、昨夜の月を掛けたのであろう。
この時期の三日月は、夜更けの頃によく映えて見えるが、しかしその頃は沈みかけの三日月である。
「残念だが、機会が無く、夕方の(のぼりかけの)三日月しか見たことがなくてな」
俺は襟巻きを整えながら頼蔵に言った。
返事を待っていた頼蔵は、すこし間を置いて微笑した。
そして、
「あなたはほんとうにご忠義の厚い方だ」
と、半ば呆れ気味の顔で、しかし満更でもなさそうな顔をした。
すべては殿様の御ために
殿の熊本行きを成功させるには、なによりも忠義第一、奉公第一である。
今日は休日だった。
墨が残りわずかであったので、城下町に買いに行った。
買いに行く店は、いつも決めてある。
父も利用しており、俺も元服する前から通っている店である。
俺が声を掛けると、商品の整理をしていた店主がこちらにやって来た。
愛想のいい男だ。
「これは犬童様、いつもの御用でございますか」
「あぁ、いつものをくれ」
俺が手短にそう答えると、店主は品の準備をしながら話を始めた。
「お父上もさることながら、ご子息の頼兄様もずいぶんとご出世なさいました。それなのに、このような小店をご贔屓にしていただいて、誠に身に余る光栄でございます」
「出世か」と俺は呟いた。
耳ざとくそれをも聞いた店主は、「はい」と頷いた。
「頼兄様においては、まだまだご出世なさいますでしょう」
数多くいる城勤めの人間のうち、殿に直接会えるのは僅かである。
その僅かのうち、殿の側にいられるのはまた僅かである。
相当限られた特権のなかで、俺は殿の補佐役と言う実質2番目の地位にいる。
今より出世するとすれば、殿に取って代わることしかないであろう。
そう思ったとき、俺は不覚にも「悪くはない」と感じてしまった。
その店には、子供のちょっとした玩具も置いてある。
ふと横を見ると、風車が風に吹かれてからからと回っていた。
まだ殿が幼い頃、墨を買いに来たついでに、殿に土産としてこれを買って帰った記憶がある。
殿はたいそう喜んでくれ、壊れて直しようがなくなるまで、俺が買ってきた風車で遊んでくれた。
「こちらの風車は、『殿様もお気に召された品』として売らせていただいております」
さらに店主が言うには、その店は「犬童家御用達の店」を看板にしているらしい。
なかなか商魂逞しい店主である
俺は金を払い、品を受け取って帰った。
殿様の御ために働くことは、同時に自分の出世のためなのであろうか。
そうではない。
俺はあくまでも、殿様の御ために働くのだ。
殿は昔、花押というものに憧れていた。
当主の許可を得るために提出された文書に、父親がさらさらと花押を書く姿を横で見ていた故であろう。
「僕も大人になったら、あれを書かせてもらえるの?」
と、元服前、殿は俺にこう訊ねた。
殿は次男なので、お家を代表しての花押を書くことは無理でしょうが、きっと貰えますよ、と俺は答えておいた。
あれから10年以上経ち、殿はお家を代表して花押を書く身分になった。
今日も、当主の許可を求める文書が山ほど殿の部屋に持ち込まれた。
殿は、1枚取っては花押を書き、また1枚取っては花押を書く。
その作業を横目で見ていた俺は、殿様の御ため
「殿、書けばいいというものではありませんよ」
と言った。
殿は筆を持ったまま、気まずそうな目で俺を上目に見た。
文書はきちんと全部読め
 
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(劇)池田商会制作様
2008年9月14日、九州戦国史を描く演劇を上演されました
主役は犬童頼兄!



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キリ番訪い者様へのお返事
・1年目2月17日300訪いの方
ご訪問ありがとうございます。
「青森県弘前市に相良姓または犬童姓の人が今もいるのか」という内容のご意見をいただきました。申し訳ないことに管理人も断言できるほどの知識はありませんが、答えられる限りお答えしたいと思います。
根拠に用いるには説得力が疑われますが、Wikipediaによると、子孫は「名字を変えて」津軽藩に仕えたとあります。よって、相良姓・犬童姓は頼兄の代で終わったとも考えられます。しかし、犬童頼兄は津軽で罪人として扱われず、教養人として津軽藩の藩士の育成に貢献していたようですから、わざわざ身の上を憚り名字を変える必要性は無かったのではないでしょうか。さらに、町の名前として弘前市相良町が残っています。このことからも、仮に一旦頼兄の代で相良姓が絶えたとしても、江戸期に家系を遡り相良姓を再び名乗り始めた可能性も考えられます。
憶測ばかりで答えになっておりませんが、管理人は今も相良姓を名乗る人がいるのではないかと思っております。この度はご訪問・ご意見ありがとうございました。
※結論確定いたしました※
人吉城歴史館の学芸員の方にお話をお伺いして参りました。
人吉にも弘前にも、流罪後の頼兄に関する史料は残っていないようです。そのため、弘前に頼兄つながりの相良姓・犬童姓が残ったかどうかを確認することはできかねるということでした。
よりあに書簡
メールフォームです。
お気軽にどうぞ。
よりあに書簡(別窓開きます)
相良頼房史実プロフィール
1574年生まれ。
第18代当主・義陽の次男として生まれ、父の戦死後は人質として薩摩に赴き、兄の死後は第20代当主となった。
関ヶ原合戦や大阪の陣を経験する。
犬童頼兄の補佐を受け、数々の場面で助けられるも、彼の勝手な振る舞いが悩みの種だった。
犬童頼兄史実プロフィール
生年不詳。
生家の犬童家は、肥後の奥地を治める相良氏に代々仕える。
相良家の2万2000石に対し、半分近い8000石を有した。
のちに相良頼兄、相良清兵衛頼兄と名乗る。
主家の維持に尽力するも、後年、専横の振舞いが目立ったため主家によって幕府に訴えられ、津軽藩に流される。
それに反発した一族が相良家に乱を起こし、一族全員121人が討死した。
弘前市相良町は頼兄の屋敷地に由来する。
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相良家筆頭家老
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