午後の小休憩のとき、殿は饅頭を食べながら家臣の名簿を見ていた。
「ねぇ、よりあにの名字ってさ」
「なんですか」
殿は新しい紙を取り出し、筆を取ってなにかを書き始めた。
俺は茶を飲みながらその様子を眺め、「ほら」と殿がその紙を差し出したので、湯呑みを置いてそれを受け取った。
俺は絶句した。
それには、『犬童→犬の童→犬の子供→子犬ちゃん』と書いてあった。
「こうなるよね」
唖然として固まる俺に、殿は無邪気に言った。
こうなるもなにもあるか。
茶を飲みながらこれを見ていたら、俺は確実に噴いていた。
危うく、一世一代の大恥をさらすところであった。
「殿、ひとの名前をなんだと思っているのですか」
殿様の御ため、俺は殿に蹴りを入れて差し上げた。
が、かわされた。
まだ話は続く。
夕方、廊下で深水頼蔵に出くわした。
「や、頼兄殿。お疲れ様です」
俺は「あぁ」と短く返したが、擦れ違いざまに、
「子犬ちゃんですか…」
と頼蔵が呟いた。
振り返ると、嘲笑に限りなく近い微笑を浮かべた頼蔵がいた。
あのガキ、喋ったな。
俺はそう思い、殿の部屋へ行き、殿様の御ために障子を開けるなり蹴りを入れて差し上げた。
しかし、またもや以下略(悲)。
「ねぇ、よりあにの名字ってさ」
「なんですか」
殿は新しい紙を取り出し、筆を取ってなにかを書き始めた。
俺は茶を飲みながらその様子を眺め、「ほら」と殿がその紙を差し出したので、湯呑みを置いてそれを受け取った。
俺は絶句した。
それには、『犬童→犬の童→犬の子供→子犬ちゃん』と書いてあった。
「こうなるよね」
唖然として固まる俺に、殿は無邪気に言った。
こうなるもなにもあるか。
茶を飲みながらこれを見ていたら、俺は確実に噴いていた。
危うく、一世一代の大恥をさらすところであった。
「殿、ひとの名前をなんだと思っているのですか」
殿様の御ため、俺は殿に蹴りを入れて差し上げた。
が、かわされた。
まだ話は続く。
夕方、廊下で深水頼蔵に出くわした。
「や、頼兄殿。お疲れ様です」
俺は「あぁ」と短く返したが、擦れ違いざまに、
「子犬ちゃんですか…」
と頼蔵が呟いた。
振り返ると、嘲笑に限りなく近い微笑を浮かべた頼蔵がいた。
あのガキ、喋ったな。
俺はそう思い、殿の部屋へ行き、殿様の御ために障子を開けるなり蹴りを入れて差し上げた。
しかし、またもや以下略(悲)。
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午前中に、殿と槍の訓練をした。
最近は刀ばかりであったので、槍を扱うのは久々だった。
もっとも、実際の戦場で用いる武器で主流なものは槍である。
殿と手合わせしていると、俺はふと違和感を感じた。
なにかが違う。
殿に槍の手さばきを教えてきたのは自分であるが、殿の手付きから、教えたものとは異なる感覚が伝わってきた。
俺は一旦中止し、殿にその違和感を述べた。
すると殿は、
「昔、義弘さんにも教えてもらったからかなぁ」
と言った。
島津義弘と言えば、中央にまで名の聞こえるほどの槍の名手である。
殿によると、義弘は、政治に関することはすべて兄で当主の義久に任せ、夏場は茄子を作るなどして気ままに暮らし、戦が起こればそれに出る日々だという。
薩摩の足軽のようだ。
何年前になるか、まだ相良家が島津の幕下に入る前、伊東氏と謀り島津義弘を討とうとしたことがある。
木崎原の戦いと呼ばれ、義陽公指揮の下、俺も父と共に従軍した。
時機到来とあらば、出て行って義弘を挟み撃ちにする作戦であったが、伊東勢の10分の1の数の島津軍に味方が崩されていくのを目の当たりにして、相良勢は結局引き返した。
そのとき、遠目ではあったが、俺は義弘の姿を見た。
馬上で自ら槍を振るい、釣り野伏せという薩摩特有の戦法で敵を陥れる様は、敵ながら見とれるほどであった。
殿は、その義弘から直接槍を教わったと言う。
「よりあにに教えてもらった通りの使い方に戻すよ」
と、もう一度いちから教えてくれと意気込む殿に、俺は、
「いいえ、そのままで結構です」
と言った。
「いまのほうが、動きに切れがあってよろしいでしょう」
殿は、俺のいい加減な理屈に訝しげな顔をした。
殿様の御ため、俺は小さな声で、
「義弘の槍で島津を制するのも、また一興でしょう」
と本音を呟いた。
これを聞いた殿は、「よりあにはやらしいね」と笑っていた。
が、
「そういうところが好きだけどね」
殿は真顔に戻るとそう言った。
俺は思う。
殿のほうが、俺の何十倍も嫌らしい、と。
最近は刀ばかりであったので、槍を扱うのは久々だった。
もっとも、実際の戦場で用いる武器で主流なものは槍である。
殿と手合わせしていると、俺はふと違和感を感じた。
なにかが違う。
殿に槍の手さばきを教えてきたのは自分であるが、殿の手付きから、教えたものとは異なる感覚が伝わってきた。
俺は一旦中止し、殿にその違和感を述べた。
すると殿は、
「昔、義弘さんにも教えてもらったからかなぁ」
と言った。
島津義弘と言えば、中央にまで名の聞こえるほどの槍の名手である。
殿によると、義弘は、政治に関することはすべて兄で当主の義久に任せ、夏場は茄子を作るなどして気ままに暮らし、戦が起こればそれに出る日々だという。
薩摩の足軽のようだ。
何年前になるか、まだ相良家が島津の幕下に入る前、伊東氏と謀り島津義弘を討とうとしたことがある。
木崎原の戦いと呼ばれ、義陽公指揮の下、俺も父と共に従軍した。
時機到来とあらば、出て行って義弘を挟み撃ちにする作戦であったが、伊東勢の10分の1の数の島津軍に味方が崩されていくのを目の当たりにして、相良勢は結局引き返した。
そのとき、遠目ではあったが、俺は義弘の姿を見た。
馬上で自ら槍を振るい、釣り野伏せという薩摩特有の戦法で敵を陥れる様は、敵ながら見とれるほどであった。
殿は、その義弘から直接槍を教わったと言う。
「よりあにに教えてもらった通りの使い方に戻すよ」
と、もう一度いちから教えてくれと意気込む殿に、俺は、
「いいえ、そのままで結構です」
と言った。
「いまのほうが、動きに切れがあってよろしいでしょう」
殿は、俺のいい加減な理屈に訝しげな顔をした。
殿様の御ため、俺は小さな声で、
「義弘の槍で島津を制するのも、また一興でしょう」
と本音を呟いた。
これを聞いた殿は、「よりあにはやらしいね」と笑っていた。
が、
「そういうところが好きだけどね」
殿は真顔に戻るとそう言った。
俺は思う。
殿のほうが、俺の何十倍も嫌らしい、と。
昨夜、俺と深水頼蔵は殿の部屋に呼ばれた。
今週末から加藤清正の居城熊本城に行くに当たって、その間の島津対策についての会議であった。
俺は殿について熊本に行くが、頼蔵は留守居を務める。
要するに、両者口裏合わせのための会議だ。
それが丑三つ時過ぎまで長引いた。
殿はいつもは日付が変わる前に寝てしまうので、9日になる頃にはかなり眠たげな様子だった。
それでも、台所の連中が気を遣ってもってきた夜食をきれいに平らげていた。
口裏合わせも済み、解散となると、殿は「ご苦労様、おやすみ」と言って布団に入り、すぐに眠ってしまった。
気配を感じて目を覚ましたキジ馬は、殿の側へ寄り添って再び眠っていた。
それぞれの部屋に戻るため、なぜそうなるのか頼蔵と廊下を歩いていると、頼蔵が、
「頼兄殿、ご存知ですか」
と言った。
「昨夜は三日月だったのですよ」
頼蔵は立ち止まり、月などとうに沈んでしまった夜空を見上げた。
この城は、別名「繊月城」と呼ばれている。
その名称と、昨夜の月を掛けたのであろう。
この時期の三日月は、夜更けの頃によく映えて見えるが、しかしその頃は沈みかけの三日月である。
「残念だが、機会が無く、夕方の(のぼりかけの)三日月しか見たことがなくてな」
俺は襟巻きを整えながら頼蔵に言った。
返事を待っていた頼蔵は、すこし間を置いて微笑した。
そして、
「あなたはほんとうにご忠義の厚い方だ」
と、半ば呆れ気味の顔で、しかし満更でもなさそうな顔をした。
すべては殿様の御ために。
殿の熊本行きを成功させるには、なによりも忠義第一、奉公第一である。
今週末から加藤清正の居城熊本城に行くに当たって、その間の島津対策についての会議であった。
俺は殿について熊本に行くが、頼蔵は留守居を務める。
要するに、両者口裏合わせのための会議だ。
それが丑三つ時過ぎまで長引いた。
殿はいつもは日付が変わる前に寝てしまうので、9日になる頃にはかなり眠たげな様子だった。
それでも、台所の連中が気を遣ってもってきた夜食をきれいに平らげていた。
口裏合わせも済み、解散となると、殿は「ご苦労様、おやすみ」と言って布団に入り、すぐに眠ってしまった。
気配を感じて目を覚ましたキジ馬は、殿の側へ寄り添って再び眠っていた。
それぞれの部屋に戻るため、なぜそうなるのか頼蔵と廊下を歩いていると、頼蔵が、
「頼兄殿、ご存知ですか」
と言った。
「昨夜は三日月だったのですよ」
頼蔵は立ち止まり、月などとうに沈んでしまった夜空を見上げた。
この城は、別名「繊月城」と呼ばれている。
その名称と、昨夜の月を掛けたのであろう。
この時期の三日月は、夜更けの頃によく映えて見えるが、しかしその頃は沈みかけの三日月である。
「残念だが、機会が無く、夕方の(のぼりかけの)三日月しか見たことがなくてな」
俺は襟巻きを整えながら頼蔵に言った。
返事を待っていた頼蔵は、すこし間を置いて微笑した。
そして、
「あなたはほんとうにご忠義の厚い方だ」
と、半ば呆れ気味の顔で、しかし満更でもなさそうな顔をした。
すべては殿様の御ために。
殿の熊本行きを成功させるには、なによりも忠義第一、奉公第一である。
今日は休日だった。
墨が残りわずかであったので、城下町に買いに行った。
買いに行く店は、いつも決めてある。
父も利用しており、俺も元服する前から通っている店である。
俺が声を掛けると、商品の整理をしていた店主がこちらにやって来た。
愛想のいい男だ。
「これは犬童様、いつもの御用でございますか」
「あぁ、いつものをくれ」
俺が手短にそう答えると、店主は品の準備をしながら話を始めた。
「お父上もさることながら、ご子息の頼兄様もずいぶんとご出世なさいました。それなのに、このような小店をご贔屓にしていただいて、誠に身に余る光栄でございます」
「出世か」と俺は呟いた。
耳ざとくそれをも聞いた店主は、「はい」と頷いた。
「頼兄様においては、まだまだご出世なさいますでしょう」
数多くいる城勤めの人間のうち、殿に直接会えるのは僅かである。
その僅かのうち、殿の側にいられるのはまた僅かである。
相当限られた特権のなかで、俺は殿の補佐役と言う実質2番目の地位にいる。
今より出世するとすれば、殿に取って代わることしかないであろう。
そう思ったとき、俺は不覚にも「悪くはない」と感じてしまった。
その店には、子供のちょっとした玩具も置いてある。
ふと横を見ると、風車が風に吹かれてからからと回っていた。
まだ殿が幼い頃、墨を買いに来たついでに、殿に土産としてこれを買って帰った記憶がある。
殿はたいそう喜んでくれ、壊れて直しようがなくなるまで、俺が買ってきた風車で遊んでくれた。
「こちらの風車は、『殿様もお気に召された品』として売らせていただいております」
さらに店主が言うには、その店は「犬童家御用達の店」を看板にしているらしい。
なかなか商魂逞しい店主である。
俺は金を払い、品を受け取って帰った。
殿様の御ために働くことは、同時に自分の出世のためなのであろうか。
そうではない。
俺はあくまでも、殿様の御ために働くのだ。
墨が残りわずかであったので、城下町に買いに行った。
買いに行く店は、いつも決めてある。
父も利用しており、俺も元服する前から通っている店である。
俺が声を掛けると、商品の整理をしていた店主がこちらにやって来た。
愛想のいい男だ。
「これは犬童様、いつもの御用でございますか」
「あぁ、いつものをくれ」
俺が手短にそう答えると、店主は品の準備をしながら話を始めた。
「お父上もさることながら、ご子息の頼兄様もずいぶんとご出世なさいました。それなのに、このような小店をご贔屓にしていただいて、誠に身に余る光栄でございます」
「出世か」と俺は呟いた。
耳ざとくそれをも聞いた店主は、「はい」と頷いた。
「頼兄様においては、まだまだご出世なさいますでしょう」
数多くいる城勤めの人間のうち、殿に直接会えるのは僅かである。
その僅かのうち、殿の側にいられるのはまた僅かである。
相当限られた特権のなかで、俺は殿の補佐役と言う実質2番目の地位にいる。
今より出世するとすれば、殿に取って代わることしかないであろう。
そう思ったとき、俺は不覚にも「悪くはない」と感じてしまった。
その店には、子供のちょっとした玩具も置いてある。
ふと横を見ると、風車が風に吹かれてからからと回っていた。
まだ殿が幼い頃、墨を買いに来たついでに、殿に土産としてこれを買って帰った記憶がある。
殿はたいそう喜んでくれ、壊れて直しようがなくなるまで、俺が買ってきた風車で遊んでくれた。
「こちらの風車は、『殿様もお気に召された品』として売らせていただいております」
さらに店主が言うには、その店は「犬童家御用達の店」を看板にしているらしい。
なかなか商魂逞しい店主である。
俺は金を払い、品を受け取って帰った。
殿様の御ために働くことは、同時に自分の出世のためなのであろうか。
そうではない。
俺はあくまでも、殿様の御ために働くのだ。
殿は昔、花押というものに憧れていた。
当主の許可を得るために提出された文書に、父親がさらさらと花押を書く姿を横で見ていた故であろう。
「僕も大人になったら、あれを書かせてもらえるの?」
と、元服前、殿は俺にこう訊ねた。
殿は次男なので、お家を代表しての花押を書くことは無理でしょうが、きっと貰えますよ、と俺は答えておいた。
あれから10年以上経ち、殿はお家を代表して花押を書く身分になった。
今日も、当主の許可を求める文書が山ほど殿の部屋に持ち込まれた。
殿は、1枚取っては花押を書き、また1枚取っては花押を書く。
その作業を横目で見ていた俺は、殿様の御ため、
「殿、書けばいいというものではありませんよ」
と言った。
殿は筆を持ったまま、気まずそうな目で俺を上目に見た。
文書はきちんと全部読め。
当主の許可を得るために提出された文書に、父親がさらさらと花押を書く姿を横で見ていた故であろう。
「僕も大人になったら、あれを書かせてもらえるの?」
と、元服前、殿は俺にこう訊ねた。
殿は次男なので、お家を代表しての花押を書くことは無理でしょうが、きっと貰えますよ、と俺は答えておいた。
あれから10年以上経ち、殿はお家を代表して花押を書く身分になった。
今日も、当主の許可を求める文書が山ほど殿の部屋に持ち込まれた。
殿は、1枚取っては花押を書き、また1枚取っては花押を書く。
その作業を横目で見ていた俺は、殿様の御ため、
「殿、書けばいいというものではありませんよ」
と言った。
殿は筆を持ったまま、気まずそうな目で俺を上目に見た。
文書はきちんと全部読め。