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マイナー武将のメジャー家老・犬童頼兄による日記。
 
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迂闊だった。
風邪を引いてしまった。
殿様の御ためによく働くためにも、今日は早く休んで治してしまおうと思う。
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昨日出過ぎたことを言ってしまったことを詫びた。
すると殿は、
「それがよりあにの仕事だろ」
と言って笑った。
「昨日言ってくれたことは確かに正しいし、よりあにしかそんなことは言えないんだからね」
殿の言う通り「俺にしか言えない」のならば、それこそ勢いで言葉を出すようではならない。
後悔はあの世で幾らでもできるといえども、殿様の御ためには、熟慮された適切な言葉、内容でなければ意味は無いのだ。
午後、宇土の小西行長から殿宛てに書状が届いた。
殿は書状を受け取ると、喜々としてすぐさま封を開けようとしたが、ぴたりと止まって俺をちらりと見た。
「私が居ると見づらい手紙ですか?」
殿の不審な態度に対し、俺は憚りもせずに訊ねた。
「見づらいと言うより…」
怒られるかもしれない、と思って。
言いにくそうに殿はそう答えた。
よく意味が分からなかったので詳細を求めると、その手紙は「くりすます」について事細かに書かれたものだった。
俺は受取人である殿に封を開けさせ、内容を確認した。
確かに「くりすます」についての手紙であった。
「殿。くりすますをやりたくて、小西行長に書状を求めたのですか」
俺は殿に手紙を返した。
「…うん」
「できるわけがないでしょう。加藤も島津も基督教を嫌っているのに、殿が切支丹の祭りなどに手を出したらどうなるとお思いですか」
俺がこう言うと、殿は黙り込んでしまった。
「でも、庭の木に飾り付けをするなんて七夕みたいなものじゃんか」
この言葉、小西が聞いたらどうするか
殿の幼稚な姿勢に、俺は若干頭に来ていた。
そのせいか、勢いで次のようなことを言ってしまった。
「七夕に似ていようが似てなかろうが、切支丹が絡むことは控えてください。少しはお家のことも考えていただきたい
目を覚ましてもらうため、殿様の御ために言ったつもりであった。
が、殿は悲しそうな顔をし、「うん」と頷いた。
俺が言ったことは、今の時勢からすると正しいことだと信じている。
しかし、何故か後悔が離れない。
俺の殿様の御ためは、殿の喜ぶ顔を見るだけではない。
あのような顔も見なければ、ほんとうの殿様の御ためではないはずだ。
それなのに何故、「言わなければ良かった」という思いが消えぬのか。
今日は行きつけの文具店に封筒を買いに行った。
店主に「できるだけ小さなものを」と要求すると、手の平に乗る程度のものを店の奥から出してきた。
「これが一番小さい封筒ですが、如何ですか」
店主は、こちらの様子をうかがうような目で見て言った。
「これくらいがいい。それをくれ」
俺は懐から財布を出し、値段を訊いて金を置いた。
帰り際、店主が突然、
「お喜びになられることでしょう」
と微笑んだ。
この小さな封筒の使い道が分かったようであった。
「親族を大事にしなければ、殿によく仕えることもできず、殿様の御ためにならないからな」
俺はそう言い残して城に帰った。
殿は、キジ馬を膝に抱いたまま仕事をする。
理由は「温かいから」であるそうだが、キジ馬も好きに遊びまわりたいであろう。
そう思い、伝えようとすると、むしろ安心しきって眠っているキジ馬がいた。
こういうことを邪推と言うのだろうか。
最近、俺は殿に炬燵が必要かどうかを訊ねようと考えていたのだが、殿様の御ため、訊ねるのはやめることにした。
そんな野暮なことはできまい。
その上、どういうことか、俺がその場に居ると1頭と1人の邪魔をしているように思え始めてしまった。
有り得ない。
考え過ぎだ。
考え過ぎであって欲しい。
 
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(劇)池田商会制作様
2008年9月14日、九州戦国史を描く演劇を上演されました
主役は犬童頼兄!



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キリ番訪い者様へのお返事
・1年目2月17日300訪いの方
ご訪問ありがとうございます。
「青森県弘前市に相良姓または犬童姓の人が今もいるのか」という内容のご意見をいただきました。申し訳ないことに管理人も断言できるほどの知識はありませんが、答えられる限りお答えしたいと思います。
根拠に用いるには説得力が疑われますが、Wikipediaによると、子孫は「名字を変えて」津軽藩に仕えたとあります。よって、相良姓・犬童姓は頼兄の代で終わったとも考えられます。しかし、犬童頼兄は津軽で罪人として扱われず、教養人として津軽藩の藩士の育成に貢献していたようですから、わざわざ身の上を憚り名字を変える必要性は無かったのではないでしょうか。さらに、町の名前として弘前市相良町が残っています。このことからも、仮に一旦頼兄の代で相良姓が絶えたとしても、江戸期に家系を遡り相良姓を再び名乗り始めた可能性も考えられます。
憶測ばかりで答えになっておりませんが、管理人は今も相良姓を名乗る人がいるのではないかと思っております。この度はご訪問・ご意見ありがとうございました。
※結論確定いたしました※
人吉城歴史館の学芸員の方にお話をお伺いして参りました。
人吉にも弘前にも、流罪後の頼兄に関する史料は残っていないようです。そのため、弘前に頼兄つながりの相良姓・犬童姓が残ったかどうかを確認することはできかねるということでした。
よりあに書簡
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相良頼房史実プロフィール
1574年生まれ。
第18代当主・義陽の次男として生まれ、父の戦死後は人質として薩摩に赴き、兄の死後は第20代当主となった。
関ヶ原合戦や大阪の陣を経験する。
犬童頼兄の補佐を受け、数々の場面で助けられるも、彼の勝手な振る舞いが悩みの種だった。
犬童頼兄史実プロフィール
生年不詳。
生家の犬童家は、肥後の奥地を治める相良氏に代々仕える。
相良家の2万2000石に対し、半分近い8000石を有した。
のちに相良頼兄、相良清兵衛頼兄と名乗る。
主家の維持に尽力するも、後年、専横の振舞いが目立ったため主家によって幕府に訴えられ、津軽藩に流される。
それに反発した一族が相良家に乱を起こし、一族全員121人が討死した。
弘前市相良町は頼兄の屋敷地に由来する。
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犬童頼兄
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非公開
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相良家筆頭家老
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