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マイナー武将のメジャー家老・犬童頼兄による日記。
 
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殿は動物を飼っている。
犬,猫,鷹の類ではなく、九州にしか生息していないという『キジ馬』である。
だいたいこんな感じの生物だ。
b1e25f25.jpeg
たいてい殿と居るが、殿が見当たらないときはどういうわけか俺のところに来る。
仕事中、背後から視線を感じて振り向くと、高確率でこれこいつがいる(その他の場合は他国の忍者だ)。
俺が気がついたと見るや、寄ってきて構ってくれと言わんばかりに「きゅ~きゅ~」鳴く。
野生のキジ馬なら、そのまま掴んで外に放り出すが、あくまでも殿のキジ馬である。
ないがしろにはできない。
よって、仕事をやめてキジ馬に構ってやることになる。
これも殿様の御ためであるし、殿の世話をすることを考えたら、らくなことだ。
ただ、キジ馬と遊んでいる最中、深水頼蔵が部屋にやってきたことに気づかない場合を除けば、の話だが。
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虫が鳴いていた。
「虫の鳴き声が聞こえますな」
殿は相良氏法度第2巻を読み、俺は監視を兼ねてその横で、筆を走らせていた。
「風流だね」
殿は本から目を逸らさずにそう言った。
「真夏の午後に腹の虫が鳴くことの、どこが風流ですか」
「だって腹が減ったんだもん…」
「百歩譲って『だって』と『だもん』に突っ込みを入れるのはやめますが。もう少し経ったら夕餉ですから、我慢してくださいますね?」
暗に『我慢しろ』と言ってみたが、この殿には無駄だった。
10分後、俺は台所に行って握り飯(梅干し入り)を作らせていた。
「どうぞ」
殿に握り飯を差し出すと、殿は「ありがとう」と言って嬉しそうに食べ始めた。
俺は元の席に座って、その様子をなかばあきれ気味に眺めた。
とうもろこしを食ったり、握り飯を食ったり。
いったい殿は、どれだけ食べれば気が済むのか
けれども、夏ばてされるよりは幾分かましだろう。

今度は眠たくなってきたらしい殿様の御ため、俺は廊下の柱で鳴いていた蝉を取ってきて、部屋の中で鳴かせた。
効果はあったが、俺には弊害があった
殿。
何遍も言わせないでください。
俺は「よりあにではなく、よりえ」だ。
あなたが俺を「よりあに」と呼ぶから、ご家中では、裏で「よりあに殿」と言っている奴までいるんです。
殿が俺をなんと呼ぼうと、殿様の御ために働くことは変わらない。
が、しかし、どこか気の抜ける響きに聞こえる。
「よりあに」は。

今日は日曜日、休日だった。
城下で用事を済ませ、帰って城内の廊下を歩いていると、深水頼蔵に出くわした。
「これは頼兄殿。青色の襟巻きで、とても涼しげですね」
「お前の嫌味のおかげで、かえって冷静になれてより涼しいな
おそらく、最も涼しかったのは周囲にたまたまいた奴らだろう。
「左様ですか。せいぜいよく冷静になって、身の引きどころを知ってください
「『寄せては沈む 月の浦波』」
俺はそう言って、頼蔵の横を通り抜けた。
『寄せては沈む…』は、頼蔵の父親、頼安が詠んだ句で、この部分には『なんど来ても無駄だ』という意味がある。
俺と深水頼蔵は、とにかく仲が悪い。
互いに、相手が失脚するのを待ち望んでいる仲だ。

ところで。
廊下のつきあたりで殿がとうもろこしを食べているのを見たとき、思わず脱力したのは否めない。
一国の主が廊下でとうもろこし、は良くないと思った俺は、殿様の御ために、
「殿」
と声を掛けた。
すると殿は振り返って、
「食べる?」
と、とうもろこしを差し出してきた。
この殿を見ていると、俺と頼蔵の対立抗争など、なんだかどうでもいいものに思えてくる。
これも殿の『求麻郡内安全』を狙う願う策なのだろうか。
殿の横でとうもろこしをかじりながら、俺はそんなことを考えていた。

今日も良く晴れ、日干ししていた俺の襟巻きも、正午過ぎには乾いた。
午前中に渡した本をきちんと読んでいるかを確認するため、殿の部屋に行くと、あのガキは殿は障子の際に座って外を眺めていた。
城の前を流れる球磨川を眺めているらしい。
「よりあに、子供が泳いでいるよ」
気配だけで俺と分かったらしく、背を向けたままそう言った。
「暑いですからね」
机の上の本は、数頁めくられただけで放置されていた。
「昔、父さんに聞いたんだけど」
殿は、俺に本のことを突っ込ませる暇も与えない
「島津方と大友方がぶつかった合戦で、耳川って川が赤く染まったって、ほんとうなのかな」
「事実ですよ」
俺は机のそばに腰を下ろして答えた。
ここはきれいなままでいたいね
殿はいつものように、呟くような小さな声で言った。
これには2つの意味があるように思われる。
1つは、『戦なんて無い、穏やかな世の中にしたい』こと。
2つは、『戦をするなら、他領でやりたい』こと。
俺は殿がどちらの意味で言ったのかを考えたが、その答えは、今後の殿の動きを見ていれば分かるだろうと思い、考えるのはやめた。
「よりあに」
水浴びをしたいなら、最低1冊は読み終えてからにしてください
「なんでわかったの」
俺は殿が物心つくか否かの頃から、教育係だか子守り係だか知りませんが、殿にお仕えしてです

それくらい分かります。

そうして、午後の俺の仕事は、殿に相良氏法度第1巻を読了させることになった。
 
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(劇)池田商会制作様
2008年9月14日、九州戦国史を描く演劇を上演されました
主役は犬童頼兄!



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キリ番訪い者様へのお返事
・1年目2月17日300訪いの方
ご訪問ありがとうございます。
「青森県弘前市に相良姓または犬童姓の人が今もいるのか」という内容のご意見をいただきました。申し訳ないことに管理人も断言できるほどの知識はありませんが、答えられる限りお答えしたいと思います。
根拠に用いるには説得力が疑われますが、Wikipediaによると、子孫は「名字を変えて」津軽藩に仕えたとあります。よって、相良姓・犬童姓は頼兄の代で終わったとも考えられます。しかし、犬童頼兄は津軽で罪人として扱われず、教養人として津軽藩の藩士の育成に貢献していたようですから、わざわざ身の上を憚り名字を変える必要性は無かったのではないでしょうか。さらに、町の名前として弘前市相良町が残っています。このことからも、仮に一旦頼兄の代で相良姓が絶えたとしても、江戸期に家系を遡り相良姓を再び名乗り始めた可能性も考えられます。
憶測ばかりで答えになっておりませんが、管理人は今も相良姓を名乗る人がいるのではないかと思っております。この度はご訪問・ご意見ありがとうございました。
※結論確定いたしました※
人吉城歴史館の学芸員の方にお話をお伺いして参りました。
人吉にも弘前にも、流罪後の頼兄に関する史料は残っていないようです。そのため、弘前に頼兄つながりの相良姓・犬童姓が残ったかどうかを確認することはできかねるということでした。
よりあに書簡
メールフォームです。
お気軽にどうぞ。
よりあに書簡(別窓開きます)
相良頼房史実プロフィール
1574年生まれ。
第18代当主・義陽の次男として生まれ、父の戦死後は人質として薩摩に赴き、兄の死後は第20代当主となった。
関ヶ原合戦や大阪の陣を経験する。
犬童頼兄の補佐を受け、数々の場面で助けられるも、彼の勝手な振る舞いが悩みの種だった。
犬童頼兄史実プロフィール
生年不詳。
生家の犬童家は、肥後の奥地を治める相良氏に代々仕える。
相良家の2万2000石に対し、半分近い8000石を有した。
のちに相良頼兄、相良清兵衛頼兄と名乗る。
主家の維持に尽力するも、後年、専横の振舞いが目立ったため主家によって幕府に訴えられ、津軽藩に流される。
それに反発した一族が相良家に乱を起こし、一族全員121人が討死した。
弘前市相良町は頼兄の屋敷地に由来する。
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犬童頼兄
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相良家筆頭家老
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