夜の間に雪が降ったものの、正午以降はよく晴れ、1年を終える日としては上々の風情であった。
越年だと言うのに島津義弘は帰国しないらしく、それどころか薩摩産の生鰤2本が城に届けられた。
言うまでもなく、殿は大喜びである。
「すごい!立派な鰤だなぁ」
食い入るように送る熱い視線は、まさに感動の眼差しと言って相違ない。
加藤清正が見れば、きっと2尾3尾ほど追加で寄越すであろう(笑)。
かくして、今日は島津義弘が捌いた鰤を生で食い焼いて食い煮て食い、大晦日の昼下がりを皆で大いに飲んだくれて過ごした。
そして、夕刻になって実家に帰省した。
昨年と同じく、途中でみかんを買い、今年最後の夕日を眺めながら帰った。
今年もお家にとって難儀な1年であったが、殿のご健勝、並びにお家の存続が継続されただけ素晴らしい1年であったと言えよう。
来年もまた慌ただしい年になりそうであるが、殿様の御ため、今年のように地道な努力を続けようと思った。
そのため、堤防工事も今日ばかりは休暇とし、工夫たちを休ませることにした。
城勤めの家臣らも休日となり、屋敷で休む者、連れ立って領内に狩りに出掛ける者、様々だった。
「お前はどこにも行かないのか?」
島津義弘が二の丸で猫を集めていたので、近寄ると彼はそう言った。
「そう易々と、殿のお側を離れるわけには参りませんので」
「真面目なんだなぁ」
義弘が猫を撫でてやると、猫は気持ち良さそうな声を出した。
「義弘殿は猫がお好きなのですか」
「あぁ、好きだよ。可愛いじゃねぇか」
薩摩の屋敷でも飼いたいらしいが、兄が許さないようで、仕方なく外出時に野良猫に構っているようだ。
「それに、猫の目をよく見たら時間が分かるんだぜ。だから、たまに戦に連れてったりするんだ」
「それは良いですね。雨の日でも時刻が分かるとは便利です」
そうして、今日は島津義弘に猫を使った有意義なことを教わった。
夜、早速猫を数匹部屋に集め、教わった通りに見てみると、確かに瞳孔の具合から時刻を見て取れた。
部屋の前を通り掛かった深水頼蔵は、覗き込んで
「にゃあにゃあ聞こえると思ったら。こんなに集めてどうしたのですか」
と笑っていた。
「これも殿様の御ためだ」
そう言って猫を外に帰そうとすると、いつの間にか猫が皆炬燵の中に入り込んでいた。
「これがどのようにして殿のお役に立つのか存じませんが、とりあえず明日のあなたのめざしが無くなりましたね」
頼蔵の言う通り、明日は猫にえさを与えてから帰そうと思う。
雑務ならば俺が代わると言っても、頑なに「僕がやるから」と言って聞かない。
まだ島津義弘が居ると言うのに、加藤清正と書状を交わしていたならばただ事ではない。
せめて相手が誰なのかを訊こうと思ったが、筆を動かす様のその軽やかさを見ていると、穏やかならぬものではないと伝わってきた。
「今朝、殿が私たちにこれをくれたのですよ」
用あって了心様の部屋に伺ったとき、そう言って小袋を差し出された。
良い香りがする。
「これは五木の茶葉ですね」
「今日は良い夫婦の日だそうで。あの人ともども、これをよくいただいておりました」
了心様は懐かしそうに目を細めた。
「殿は覚えておいでだったのですね」
息子の思いやりに感動してか、母君の睫毛は濡れていた。
殿も粋なことをする。
幾日も掛けて自ら五木の茶職人に掛け合い、両親に対する尊敬を精一杯表現しようとした。
「今日は1杯だけいただいて、次はあの人の命日に2杯淹れ、今年1年の報告をしながら一緒にいただこうと思っています」
了心様は小袋を掌で優しく包んだ。
「あなたの遺した息子は、優しくも頼もしい、相良家の立派な殿になっております、と」
夕刻、二の丸で猫と戯れている島津義弘を見つけた。
「へえ、あいつもやるなぁ。にしても、女って大変だな。男は戦に出ても自分が頑張ればなんとかなるけどさ、女は旦那が生きて帰るかどうかも、旦那が死んだときの自分の今後のことも、自分ではどうこうできないんだぜ」
「ですから、我々はそれこそ死に物狂いで生きて帰ろうとするのでしょう」
「あぁそうか!お前、よく分かってんだなぁ。もしかしてバツイチか?」
この寒い最中に散々な言われようである。
「違います。冷え込んで参りましたので、そろそろ中にお入りください」
俺が戦場からどうしても生きて帰りたいと思うのは、一途に殿様の御ためである。
殿の補佐役を仰せ付かった以上、殿の許しもなく野に死すことは紛れも無く大罪なのである。
秋と言えば嵐の季節、もしかすると今夜は大荒れになるのかも知れないと危惧していると、城下に住む空に詳しい者が城にやって来た。
「確かに雨風は強くなっておりますが、厳重に対策を施さねばならぬほどではございません。しかし、空を見ます限り、薩摩のほうは荒れているように思われました」
彼はそう言い、薩摩が荒れているだけに、こちらも領内の脆弱な箇所を保護したほうが安心であろう、と念のために対策を行うことを提案したようだ。
俺は下の者からその話を聞き、今日は球磨川の工事を切り上げ、人夫たちに資材をまとめさせるよう命じた。
「そいつ凄いな、空を見ただけでそこまで分かるのか」
島津義弘は彼の能力に驚き、しきりに不思議がっていた。
「薩摩じゃキジ馬が基準なんだ。キジ馬がいなくなったら嵐が来る、ってな」
そう言いながら、義弘は偶然部屋にいた殿のキジ馬に薩摩揚げをかじらせた。
義弘が城にやって来てから、キジ馬の肉付きが妙に良くなってきている。
飼い主である殿様の御ため、
「大変申し上げにくいのですが、キジ馬に薩摩揚げを与えるのは3日に1度、少量にしていただけますか。近頃肥って参りましたので」
「なんだ、駄目か。こいつ雌なんだし、これくらいぽっちゃりしてるくらいが可愛いんだけどなあ」
俺は唖然とした。
殿のキジ馬は雌だったのか。
知らなかった。
先月は日記を開くことすら無くなっていただけに、2年目と記すのが憚られた。
季節は秋へと移り変わったが、変わらず球磨川の工事は続いている。
もちろん、島津義弘も人吉に滞在している。
人吉に入る秋刀魚が干し秋刀魚であることは知っていたようだが、実際に膳に干し秋刀魚が乗せられて運ばれてくると、若干物寂しげな顔をした。
「義弘さんがお小遣いで食べさせてくれた生秋刀魚の塩焼き、美味しかったなあ」
と、秋の涼やかな雨音を聞きながら、殿が懐かしそうに晩酌の盃を傾けた。
大大名家の当主の弟が小遣い制、というのも訝しい話だが、子供の時分から食い意地が張っていた殿は、義弘に胃袋のほうも世話になっていたようだ。
「あ、それに加藤さんとこの辛子蓮根とか、大阪城で出たすごく豪華な料理も美味しかったなあ」
油断していた俺が殿の口を塞いだのは、すべてを言い切ってからであった。
「殿、軽率な発言はお止めください」
壁に耳あり、障子に目あり。
いつどこで、義弘やその供の者が聞いているやも知れないのである。
しかし、焦る俺とは対照的に、殿は冷静な目でこう言った。
「聞かれていたら聞かれていたで、その時は加藤さんが出てきてくれる。秀吉さんの目があるだけに、加藤さんは僕との約束を破れるわけもないし、宇土にいる小西さんへの対抗心から出陣を渋るとは思えないよ。それに秀吉さんだって、北肥後に自分の子供みたいな武将をあえて置いているほど、九州、特に薩摩には手を焼いているんじゃないかな。早々に片付けてしまいたいはずだよ」
殿は一息でそう言ってしまうと、持っていた盃を干した。
俺にはその目に、どこか義陽公の面影があるように思われて仕方なかった。
まだ子供の気が抜けず、大層な事柄など考えているようには見えない殿であるが、人の性質を見抜き、それを利用せんとする。
この人なら、将来大事を成すに違いない。
この殿様の御ためならば、俺は生涯付き従っても悔いなど無い。